2011年5月の記事一覧
南相馬のFM放送のメニューは、
- 市内の26カ所の環境放射線量のモニタリング調査結果
- 商工会議所からのお知らせ
- 福島県弁護士会の法律相談所開設
- 避難地域への一時立ち入りの申請の仕方
- 生活小口資金の貸付法
- 罹災証明書の発行方法
- 市民会館のチケット払い戻し
- 津波流出物の返還のための公開
- ごみの搬入法
- 災害ボラセンから募集
- 義援金の申し込み法
- 自主的避難者の市への安否確認の要請
...といった感じです。
この放送が市民にとってより有益で魅力的な放送になるよう、私は原稿の作成や取材をお手伝いしています。
今聴取者に1番関心があるのは、1の「モニタリング調査」ということです。全国紙などでは、南相馬市は0.5マイクロシーベルト毎時(以下単位省略)程度のことが多いのでが、ばらつきが大きく、山側(西側)では地上1メートルで4、地上1センチで5を超えている地点もある。これは計画的避難区域にされた飯館村の中心部より高いのです(飯館には10を超す地点もあるという)。「自分の住むところは?」と、不安に思うのは当然ですが、測量計が一つだけで、市民の要望に応え切れていないようです。
値の高いところを車で回ったのですが、美しい農村風景が広がっていました。助手席に乗った方は「相馬は、夏は涼しく冬は暖かい。海岸、田園、丘陵と三つの要素が不足なく揃い、本当に住みやすいところ。原発事故が憎い」と話してくれました。
私の行くまで、放送局は市民からの意見・要望は、ファクスで募集していました。最近は放送局での情報収集のE-mailが主流なので、アドレスを取ることにしました。放送局内に使われてないパソコンがありましたので、市役所内の担当者にインターネットに接続できるように調整してもらい、アドレスを決めました。msfm795@yahoo.co.jpです。早速、放送で投稿を呼びかけました。一歩一歩ですがリスナーの認知度を高めていければと考えています。
南相馬災害FM放送を、ほとんど二人きりで切り盛りしているのは沢田貞夫さん、吉野よう子さんの夫妻です。
午前9時、午後1時、午後5時の1日3回、各1時間、ほとんど二人だけで放送しています。ミキサーやCDプレーヤーを操作しながら、市の広報資料などをマイクの前で読みます。「分かりやすく」というより「間違いなく」を重視する書類を、リスナーが聞いただけで分かるように伝えるのは、大変な仕事です。それを4月16日以来、土日も休まず、毎日続けているのです。しかも、二人はアラ還暦(還暦前後)とアラフィフのご夫妻。大災害に原発事故、放送はしばらく続きそうです。
仮設スタジオでにこやかに放送している二人も、津波の被災者です。二人とも親戚のなかに、まだ行方不明の人が何人もいらっしゃいます。沢田さんは、カラオケ教室を経営していらっしゃいますが、一人住まいの生徒さんのご遺体の確認にも行ったそうです。「顔が膨れ上がり、ゆがんでいて...」と話す沢田さんの顔もつらそうでした。沢田さんの実家は警戒地域にあり、住んでいたお母さんは無事避難したのですが、夫妻とお母さん、3人で帰宅してみたら、家の中に大きな蛇が網にからまって生臭い臭いが充満していたそうです。
災害FM放送は、大震災を受けて南相馬市が設立。15年位前に試験放送をしたことがある同市の栄町商店街振興組合に運営を委嘱しました。機材には15年前のものや、沢田さんが教室からもちこんだものもある寄せ集めです。DJがいま放送しているものを聞く、ヘッドフォンさえありませんでした。JVCは放送局支援の一環としてまずヘッドフォンを提供。続いてコピー・プリンターの複合機を購入するなど徐々に放送局の運営環境を整えていこうとしています。
南相馬市の紹介の後編です。
大震災の翌日の12日、原子力発電所の事故の深刻さが判明し、20キロ圏に入った相馬市南部・小高区(住民約1万人)に避難指示が出ました。15日には30キロ圏にある、南相馬市の中心地域・原町区(同5万人)にも屋内退避が指示されました。多くの人が自主避難したほか、南相馬市も約5,000人をバスなどで市外に避難させました。その結果、7万人の人口のうち、4万人はいったん市外に出たのではないかと言われています。この時点で、物資の供給網は分断され、ほとんどの商店が閉まり、残った市民は食料にも事欠くありさまでした。市報を印刷する印刷所すらありませんでした。4月の下旬に屋内退避地区から緊急時避難区域に変更され、徐々に市民が帰り始めました。それでも、商店の半分以上は閉じたままで、開いている食堂は調理人や従業員が少なく、限定メニューでしのいでいます。私が行く食堂も揚げ物中心で、出てくるまで時間がかかります。
小高区、原町区の小学、中学校はすべて閉鎖され、北部の鹿島区の学校へ通っていますが、数は半分以下に減っています。子どものいる家庭は、自主避難を選んだ人が多いようです。5月中旬になっても、約600ヵ所の避難所や各地の公営住宅、親戚・知人の家などに、約3万人が避難していると言われています。
このように、わずか7万人の市民が四分五裂され、しかもその状態が長引くことが予想されます。このようななか、FM放送は市民への決め細やかな情報の伝達だけでなく、インターネットを使って市外に住む人にも「放送」することで、市内外の市民のコミュニティ、アイデンティティの維持に役立つ可能性を持っています。深刻な状況、遅れる支援の手、大きな可能性...、これらの理由でJVCは南相馬でFM放送局の支援をすることにしました。
東日本大震災後に、福島県南相馬市に新たに開設された災害FM放送局の支援を通じて、復旧・復興や市民の非常時対応のお手伝いをしようと、活動を始めた楢崎知行と申します。被災地や活動の様子を少しずつお伝えしたいと思います。
まずは、南相馬市の紹介です。南相馬市は、事故を起こした福島第一原子力発電所の北、「警戒区域」(20キロ以内)、「計画的避難区域」(20キロ-30キロ圏)、「緊急時避難準備区域」(30キロ圏内の前2地域以外)、それ以外の地域をまたいで広がっています。南相馬市は旧小高町、旧原町市、旧鹿島町が合併してできた市ですが、ほぼ旧行政区ごと、上の3つの地域に分断されました。南相馬といえば、放射能が注目されますが、実は津波による死者・行方不明者も約750人と福島県では最大です。
海に近い津波の被災地は、自衛隊などの作業で、大きな瓦礫(がれき)は整理されていましたが、建造物がなにもない平らな土地は、礫沙漠(れきさばく)のようです。堤防を打ち壊して流れ込んだ波消しの巨大なテトラポットや平地に座礁した漁船は、古い時代の遺跡に、折れて倒れた高圧電線の塔は枯れた巨木に見えてきます。テレビや写真で何度も見た光景ですが、そのなかに身を置くと、ひしひしと現実感が迫ります。ひとつの被災地を過ぎ、ちいさな峠を越えて次の浜に着くと、そこも被災地。これが青森県から福島県まで約300キロも続いていると思うと、今回の被害の大きさに圧倒されます。