遺族の悲しみ
パンガー県タクアパ郡、早朝5時から白服を着た人々が、市内一角の道路に続々と集まる。思い思いのお供え物と、被災者の写真を持った遺族が、パンガー県の慰霊祭に訪れた。スマトラ島沖地震による津波被災から5年目を迎えた12月26日、遺族にとってこの5年間はどのようなものであったか。
2004年12月26日、スマトラ沖を襲った大地震は、インドネシア、タイ、スリランカなどに大津波を引き起こした。全体の死者は20万人を超え、その内タイ国内の死者は5000人以上であった。タイ国内では南部の6県が被災し、その中で最も死者が多かったのが、パンガー県である。しかしながら被災当時、観光地であるプーケットには支援がいち早く届けられたものの、隣の県であるパンガーの小漁村では、支援が滞った。
県内外から招かれた50人ほどの僧によってお経があげられ、集まった1000人を超える遺族が故人を偲んだ。お経が終了したと同時に涙を流す人の姿を見た瞬間、大切な人の命を失うことの悲しみを感じた。遺族の悲しみは5年が経った今でも癒えることはない。
孫を亡くしたタイ人女性に話を聞いた。この女性は料理を作っていた時、津波に襲われた。
女性に津波被災後の5年はどういうものだったかを聞くと、「一日も孫の顔を忘れたことはないです。当時、孫は5歳でした。毎日悲しいですが、この日が来ると一層悲しさは増します。5年前も今も悲しみは同じです」と涙を流しながら話してくれた。
パンガー県はビルマ人移住労働者が多く、ビルマ人労働者の多くは建築現場、ゴム農園、漁獲船で働いている。当時、被災したビルマ人への支援は遅れていた。津波によって奥さんを亡くしたビルマ人労働者のウィンソーさんは、パーム農園で働いている。津波前は漁獲船で働いていた。津波当日、周りの多くの人が亡くなっていった光景が今でも忘れられず、記憶に焼きついているそうだ。奥さんを亡くしたが、悲しんでばかりはいられなかった。その日暮らしであったウィンソーさんは次の仕事を探すのに必死だった。生活の苦しさは津波の前も後も変わらない。「今一番悲しいのはお寺にお参りにも行けないことだよ。このゴム農園から少しも外に出られないからね。妻の供養にも行けない。お金が無いからお布施も出来ない。それが悲しくて悔しい」
遺族の涙は思わず目を背けたくなるほど悲痛であった。

