パレスチナ最新情報
みなさん、こんにちは。パレスチナでは、本格的な冬が来る前にオリーブの収穫が行われます。私の3歳の娘も、通っている幼稚園が主催する社会科見学で、エルサレム南部の村へオリーブの収穫の様子とオリーブオイルの生産工場を見学に行くことになっています。これまでも子どもたちは幼稚園の社会科見学で近所の雑貨屋さんやクリーニング屋さんに行きましたが、今回はパレスチナならではの社会科見学。娘が羨ましい今日この頃です。
さて、JVCがMRSとともに占領下の東エルサレムで実施中の学校・地域保健事業では、分離壁の両側の東エルサレム全域が活動範囲となっています。その中でも、「C地区」と呼ばれる地域にある村々は、イスラエルの違法入植地に囲まれ、イスラエル政府によって開発と移動が制限されているため、厳しい生活を強いられています。
9月22日~24日、28日~10月2日までの2回、ついにガザを訪れた。停戦後1ヶ月以上、待ちに待った入域だった。早速、今まで遠隔で行っていた緊急支援の現場を回り人々にあう。また、現地スタッフや、ボランティアさんに挨拶に行く。ひとり一人の真実を聞きたい、一つ一つの被害地を見て回りたい、またそこで働く人々、生きる人々の「活動」を知りたい。一秒も逃したくないという緊張感で、計8日の滞在中、話を聞けた人は60人近い。
51日という長い極限状態を耐え抜いた人々は、どの人も、苦難と恐怖、悲しみ、ドラマに満ちた時間を過ごしていた。また、それを少しでも外部者の私に伝えようと、みな一様に堰を切ったように話してくれた。身体的に無事な人でも、精神的に無事な人は一人もいない。どの人からも「今回の攻撃は非常に厳しかった」という声が聞こえてくる。緊急支援の報告は他のページに割くとして、今回の現地便りからは少しずつ、私が聞き取った話を共有したいと思う。
今回は特に、JVC現地パートナー市民団体であるアルド・エル・インサーン(AEI:人間の大地)のスタッフから聞いた話をまとめてみたい。
アマルの話
戦争中も戦争後もずっと電話で連絡を取っていたAEIスタッフで、JVCプロジェクトコーディネーターのアマルは、私のガザで一番の親友であり、同僚だ。他の現地便りでも紹介している通り、彼女の家は、被害が最も多かった地域の一つ、ベイト・ハヌーンにあり、イスラエルによる地上侵攻によって、彼女の家も半壊となり、戦争中は知り合い宅や勤務先を頼りに点々と避難を繰り返していた。
ガザ現地では7月中旬から行っている緊急支援に加え、着々とJVCのガザ現行事業である「ジャバリヤ市ビルナージャでの母子栄養失調予防事業」を再開するための準備が進んでいる。
事業は7月の空爆直後から現在まで一時中断せざるを得ない状況であったが、先月末に合意された長期停戦後は、10月中旬を目途に活動を再開したいと、現地スタッフと話し合っていた。
9月13日土曜日、事業地のボランティアさん30人と、JVC現地パートナー市民団体であるアルド・エル・インサーン(AEI:人間の大地)スタッフ4名が、停戦後初めて意見交換のために一同に会した。
「どんな追加活動が必要か?」、「戦争中はどうだったか?」、「子どもやお母さんたちは大丈夫か?」、「これから何ができるか?」、AEIコーディネーターのアマルの話では、具体的な話を交えながらの意見交換会は熱気に満ちていたようで、事業担当者として会合に参加できなかったことが悔しくもあるものの(9月13日の時点でJVCスタッフへのイスラエルからのガザ入域許可が下りていなかったため)、電話でその話を聞いてとてもうれしくなった。
「みんな事業の再開を望んでいます」。アマルは私にもその意志を確認するかのように、そう電話口で言っていた。完全復興には20年もかかると言われている現地で、戦争直後にもかかわらず他者を気に掛け、直向きに仕事に励む事業スタッフやボランティアさんたちの姿勢が、私には1つの希望のように聞こえた。
ガザ攻撃51日目を過ぎた8月26日、パレスチナ現地時間19時過ぎ、待ちに待った長期停戦の発表があった。早速毎日電話していたプロジェクトコーディネーターのアマルに電話してみると、嬉々とした様子で「みんな道に出て大喜びしているよ!ついに終わったね!明日からまた沢山働かないと!」という言葉と、その後ろで、ご家族の笑い声が聞こえた。私も嬉しくて「ついに終わったね!」と彼女の言葉を繰り返して、お互いが、久しぶりに声を出して笑った。
そして電話を切る際付け加えるように、「とにかく今日はゆっくり寝てね」と伝えた。
時限付の停戦が繰り返されたのち、8月21日から26日まで空爆が再開された。その間、JVCの緊急支援の現地パートナー市民団体であるアルド・エル・インサーン(AEI:人間の大地)のスタッフも、避難所へ通って診療が出来るような状況ではなかった。予測不可能に広範囲に降り注ぐイスラエル軍の砲弾やミサイルの中、動き回るにはあまりに危険が伴っていたからだ。
一方、空爆中でも、AEIの診療所は運営を続け、出来るだけ多くの外来診療にあたってきた。昼夜問わず繰り返される空爆に怯え、スタッフ自身も眠れない日々を過ごした。国際NGO/国連スタッフがガザへの入域を制限されていた中、支える人も支えられる人も被害者という極限状態の支援活動であった。そうした状 況下でも、ガザの人々は互いを支え合ってきたのである。
今日、東エルサレムの学校保健事業が夏の間に行うサマーキャンプの最終日だった。300人の小中高校生が集まって、思い思いに自分の発表を行う。歌ったり踊ったり、劇をしたり詩を読んだり。閉会式は熱気に満ちていた。一つ一つの発表がとても情熱的で、創造的で、感極まるものがあった。
しかし、はたと気づくと、どれも「占領の不当」を題材にしたものばかり。小学生がイスラエル兵に扮し、検問所で、片方のパレスチナ人役の子どもを脅す。手にはオモチャのマシンガンがあり、横柄な態度でパレスチナ人を一掃する。そういう劇があった。また、悲しみや不当を歌にのせて熱唱する子、創作ダンスで表現する子どももいた。これらを見ていて、パレスチナ人の子どもたちにとって、占領は生活と切っても切り離せない現実だと改めて思い知らされた。
この間JVCのガザのパートナー市民団体であるアルド・エル・インサーン(AEI:人間の大地)スタッフは、JVCからの支援金をもとに、最も被害の大きかったガザ市シュジャイヤで特に支援が行き届かない私立の学校や、AEIのクリニックで避難している人々等の診療と物資配布にあたっている。
完全停戦はなされていないが、ここ1週間で72時間停戦が2回あり、イスラエルの地上軍が撤収してから、報じられる一日あたりの死者数は減る傾向にある。「このまま停戦になるのではないか?」現地ではそういった声も聞こえ、避難している人々はわずかな希望を胸に、壊された家へ戻り、使えそうなものを探しているという。
また、市場やパン屋には、少しでも食料を買いこもうと、人々が列をなしている。値段はいつもよりかなり高騰しているという。トマトが1キロ60円だったところ、150-200円以上する。今やガザは戦争前の形を留めていない。イスラエルとの境界線にあった立ち入り禁止区域は以前の1.5キロから、更に1.5キロ内側に入り込み、そのエリアに農地を持つ人々が農地にアクセスできない、或いは自宅に帰れない状況も続く(※13日付で1.5キロエリアまで後退したとの情報があるが、実際農地へのアクセスは危険が伴い非常に厳しいとのこと)。
つまり、180万人の人が7キロ×34キロの狭いところに住み、農地から市場への農産物の運搬も滞り、水の確保もままならないことになる。国連人道問題調整事務所(OCHA)の発表によると、今回の戦争でのガザの被害は7億5千万ドル以上にのぼり、それに対して各国の支援金は3割しか集まっていない。
29日以降、私がエルサレムに戻るために移動していた8月2日から3日の昼までの間を除いてガザの同僚や友人に電話をかけ続けている。
現地情勢は未だに収束を見ず、死者数が2008年末から翌年初めまで続いた大規模空爆と軍事侵攻の時をついに越え、1,800人になった。「正直ここまで悪化するとは思ってなかった」。パレスチナ研究を続けてきた知人たちも口をそろえてそう言う。
私自身もそう思う。ここまで無垢の民間人を殺せるものなのか...
3日昼、エルサレムに戻って電話がかけやすくなったこともあって、現地パートナーNGOスタッフだけでなく、他のガザの友人にも電話してみた。1人はムハンマドさん。かつてガザ事務所をシェアしていたポーランド系NGOの現地職員だった人で、よくコーヒーを飲みに行く友人だ。
彼には今年初めに生まれたばかりの息子がいる。また一番被害が多いガザ市シュジャイヤの近くに住んでいた。彼は各国から来るジャーナリストと仕事をともにしているそうだ。
「家は危険だから、家族と一緒にジャーナリストが手配してくれているホテルに仮住まいしている。取材を続けるジャーナリストを案内するために、ガザ各地、特に状況が酷いところに行っている。自分の身も危ない。命は大事だ。だけど食べるために、家族を守るためにお金が必要なんだ。」
暗い声で淡々と話す彼、大概の事は陽気に笑い飛ばす彼の性格がすっかり影を潜めていた。

現地での死者が1,000人を突破した。そのほとんどが市民である。7月22日以降、有り難くも現地パートナーNGO、アルド・エル・インサーン(AEI:人間の大地)のスタッフとは連絡が取れている。家を壊されてしまったアマルはAEIの事務所に家族と避難していて、久しぶりに少しだが眠れるようになったという。砲撃の音は聞こえるが、「少し遠い」とのこと、少なくとも事務所周辺は今のところ安全なのがせめてもの救いだ。動ける他のスタッフは、AEI代表のアドナン医師と巡回診療に奔走し、体調を崩した母子の健康を見て回っている。衛生キットや 、栄養ビスケットの配布も行っている。現在事業のボランティアさんたちとも少しずつ連絡がとれ、多くの人の生存の確認がとれた。
7月26日未明(日本時間)、12時間の一時停戦のさなか、避難所で暮らす人々は、破壊された自宅にモノを取りに行ったり、現金を持っている人は少しでも食料を買い込もうと町に出たりしている。それでも道には瓦礫があふれ、その下には無数のバラバラになった死体が転がっていると言われる。不発弾もある、またいつ再戦されるも分からない。

「神が守ってくれる、また会って、一緒にアイスを食べに行こう!」
それが彼女からの今月18日(金)の最後の言葉だった。私がガザで最もお世話になっている人の1人、現地パートナーNGO、AEI(人間の大地)のスタッフであるアマルと、本日4日ぶりに電話連絡が取れた。18日はひっきりなしの銃声と泣き叫ぶ子どもの声が後ろで聞こえる中、私も泣きながら電話した。正直もう駄目かもしれないと思って、電話中涙が止まらなかった。その後の2日間は電話がつながらず、私が送るFacebookのメッセージを彼女が見てくれて既読になっているか?それを頼りに生存を確認した。それでも21日月曜日からはそれもなくなり、気が気ではなかった。
ガザ地区中部のディール・アル・バラフに住む看護師の友人に、電話で状況を聞きました。私がパレスチナを発つ直前の7月14日に電話で話した際には、彼の自宅周辺もイスラエル軍の空爆を受けて近所の住民が殺されていましたが、まだ家から出て市場に買い物に行くことができていると話していました。また、電気も大規模攻撃の開始前と同様、1日8時間来ており、彼の声も比較的落ち着いていました。しかし、今日18日に電話したときの彼の声は震えて、ずっと緊迫感を強めており、「状況はとても悪い」と話していました。以下が、彼から聞いた詳しい状況です。