曲目紹介:バッハと『クリスマス・オラトリオ』について

曲目紹介:バッハと『クリスマス・オラトリオ』について
バッハ(ウィキメディアより)

ドイツ人作曲家 ヨハン・セバスチャン・バッハは、バロック音楽最高の天才と考えられています。彼は、熱心なルター派キリスト教信者であり、その信仰は宗教的、世俗的に全ての作品の上でも反映されています。実際、他の多くのバロック作曲家と同様に、人々がしたり信じている大半のことは、より宗教的であると感じていました。バッハも、また「音楽を通して、教会や社会、国家に奉仕できる。」というように思い込まされてもいました。彼の作品は、聴衆のために楽しみを提供するだけでなく、それを演奏する演奏家達のために、指導的な役割をも果たしました。

皮肉なことに、バッハと同時代の人々は、彼をオルガン奏者としては認めていましたが、一般的には彼の複雑な構成を持つバロック作品は無視していました。実際のところ、バッハの作曲家としての評価は、ドイツ人作曲家フェリックス・メンデルスゾーンがバッハの『マタイ受難曲』を復活させる時まで、彼の死後80年間は確立されませんでした。

ドイツ ~ アイゼナッハ ~ ミュールハウゼン

バッハは、1685年、中央ドイツ地方のアイゼナッハで四世代続く音楽一家に生まれました。父親は宮廷トランペット奏者でした。

9歳で、母、そして続いて父を失います。孤児となったバッハは、生まれ故郷を離れ、オールドルフの長兄のもとに引き取られます。15歳のとき、北に300キロ以上離れたリューネブルクの聖ミカエル教会付属学校に給費生として入学。聖歌隊に入って歌う代わりに、寄宿費、食費、授業料が与えられました。学校では大学並みのカリキュラムが準備され、教会には屈指の音楽図書館がありました。

1703年、17歳でザクセン=ヴァイマル公国の第2領主(この公国は2人の君主をいただく形態)ヨハン・エルンストに、宮廷楽師兼従僕として仕えることになりました。しかし、その4か月後、アルンシュタットの新教会で、オルガンの鑑定を兼ねて行われたオルガニストの採用試験に合格して招かれます。そこでは勉強のための時間をとることができ、『トッカータとフーガ ニ短調』などが書かれたといわれています。しかし、新しい教会とあって、教会学校の聖歌隊や楽団のレベルが低く、若いバッハにとってはその指導が悩みの種でした。

22歳のとき、ミュールハウゼンの主要な教会である聖ブラージウス教会のオルガニストに任命されました。その年、またいとこのマリア・バルバラと結婚します。

ドイツ ~ ヴァイマル ~ ケーテン

1708年、ザクセン=ヴァイマル公国の第1領主ヴィルヘルム・エルンストの宮廷オルガニスト兼楽師の辞令をバッハは受けました。ルター派の熱心な信者であり、音楽を楽しむ君主のもと、ヴァイマルでオルガン作品の大半が練られることになります。また、「オルガンの名手」として各地に招かれて演奏し、鑑定を頼まれたりしました。一方、イタリア人作曲家の器楽作品に夢中な第2領主エルンスト・アウグスト(ヨハン・エルンストの息子)の居城で、バッハはその響きに魅了され楽譜を研究しました。

1713年、ハレの聖母教会のオルガニストに内定した際、引き止めようとするヴァイマルが用意したポスト、宮廷楽団の楽師長に就任。毎月1回、礼拝のときにカンタータ(オーケストラ伴奏つきの多声楽曲)を作曲し、上演するように義務づけられました。それまでも手がけていたカンタータを、定期的に上演することが保証されたのです。

1717年、アンハルト=ケーテン侯爵レオポルトの宮廷楽長として招聘されたバッハは、辞任問題がこじれて入獄。拘留4週間で自由の身となって赴きます。音楽の素養豊かな君主のもとで、『ブランデンブルク協奏曲集』、『無伴奏チェロ組曲』といった一連の器楽作品が生まれました。

35歳のとき、お供でカールスバート(現在、チェコ)に避暑に出かけていたさなかに、4人の子どもを残して妻が世を去りました。翌年の暮れ、「端正なソプラノ」の持ち主、アンナ・マグダレーナを二度目の妻に迎え、彼女との間にさらに13人の子供をもうけました。

ドイツ ~ ライプツィヒ

当初、テレマンが依頼されていたライプツィヒの聖トーマス教会のカントール(教会楽長。教会及び市全体の音楽監督のような地位)に、1722年、バッハは就任します。主要教会における礼拝用の音楽を作曲し、上演するのが主な仕事で、毎日曜、祝日ごとに違う作品が求められ、その数は年間約60曲。バッハの指揮のもと、聖歌隊と、市の参事会に雇われた8人の楽師が演奏にあたります。復活祭前の聖金曜日に上演する決まりの受難曲も手がけ、24年『ヨハネ受難曲』、27年『マタイ受難曲』を初演。

ザクセン選帝侯を領主にいただきながら、自治の気風を貫く貿易の町ライプツィヒは、また大学の町でした。学生を中心とした音楽サークル、「コレギウム・ムジクム」がさかんで、中でもテレマンが結成したものが評判。その後継者は、コーヒーハウスにおける公開のコンサートという試みを始めていました。1729年、バッハはこの指揮者を引き受け、毎週決まった日、決まった時間にコンサートを開催。また、出版も盛んなこの町で、楽譜の発行にも手を染めました。

『クリスマス・オラトリオ』作曲 ~ 晩年

晩年は教会音楽から退いたわけではありませんが、新作はめったに生まれなくなり、当時にあってはごく一般的な他人の作品の活用、旧作の転用もひんぱんに行われました。1734年、何曲もの世俗カンタータを転用した「パロディ」の集大成という面をもつ『クリスマス・オラトリオ』が、クリスマス物語の語りとしてよりも、クリスマス瞑想録シリーズとして、作られました。原曲はいずれもコレギウム・ムジクムで初演されたものでした。12月25~27日に第1部~3部、年が明けて1月1、2、6日に第4部~6部が聖トーマス教会で上演されました。

50歳を過ぎたバッハの興味の対象となったのは対位法で、『フーガの技法』(未完)、プロイセン国王フリードリヒ2世への『音楽の捧げ物』などが生まれました。『ヨハネ受難曲』の第4稿を上演した翌年、1750年3月に受けた白内障の手術が失敗し床についた後、この偉大なオルガン奏者であり、作曲家である信仰深い家庭人は、卒中の発作で7月28日に亡くなりました。


本稿は主に加藤浩子文・若月伸一写真『バッハへの旅~その生涯と縁の街を巡る』(2000年、東京書籍発行)を基にまとめました。