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イベント報告:アフリカ丸わかり講座2007
第4回:ホテル・ルワンダ/ルワンダの涙〜スクリーンの裏側  
2007年6月29日 更新
 

JVCアフリカボランティアチーム 黒須 仁美、鶴渕 鉄平

6月12日(火)、JVCアフリカボランティアチーム主催の連続講座「アフリカまるわかり講座2007」の第4回講座を開催いたしました。

「アフリカ紛争 入門 〜『なんとなく』を『知っている』に〜」のテーマのもと、今回が第四回目になりました。今までの第三回までの講座はアフリカの紛争の概要について学んできました。今回は紛争の事例をあげて詳しく学んでいこうということで、ルワンダで主に活動している、アフリカ平和再建委員会事務局長である小峯茂嗣氏をお招きして、ルワンダの虐殺の真相、また映画『ホテル・ルワンダ』『ルワンダの涙』ではわからなかった事を中心に、学びました。

ホテルルワンダ・ルワンダの涙を見て浮かんだ疑問点

講演開始前に集めた疑問

フツ族とツチ族の対立はなぜ生まれたのか?

アフリカには、元来国境線はなかった。多民族であり、それぞれが豪族のようになって暮らしていた。
  ヨーロッパの植民地支配が始まり、ルワンダは、ドイツ植民地支配後、20世紀に入り、ベルギーが国際連盟の委任統治を開始する。
  アフリカではめずらしく、ツチとフツは言語が同じであった。ツチ・フツはもともと安定した共存関係にあったが、ベルギーの植民地化の過程で、対立が生じたのである。
  ベルギーは、ツチ族が比較的背が高くすらっとしていたため、支配階級なのだと判断し、ツチ・フツを分断する差別的な構造社会を作った。人種名が記された身分証明書が発行され、はっきりと民族の国境線が引かれたのである。
  ベルギーがツチを支配し、ツチがフツを支配する植民地政策で効果的であった分断統治・間接統治であった。

1960年代、他のアフリカと同じようにルワンダも独立。共和制をとったため、多数派のフツが実権を持つようになった。しかし、差別構造は逆転しながらも残った。
  1970年代初めや1990年代、フツはスケープゴートとしてツチの排斥運動を行なう。

1990年代、ツチの多くはウガンダに逃れていたが、RPF(ルワンダ愛国戦線)作って攻め込んだ。

当時のフツ族のハビャリマナ大統領は、政権基盤が弱まっていたため、RPFと和平を行なった。
  大臣の数や議席を分け合い、和平へと進展していったが、ハビャリマナ大統領反対派は、民兵を雇ったり、ラジオ放送によって民衆を扇動したりし、ツチを排斥するキャンペーンを展開した。

この内戦の根っこにあるのは政治権力をめぐる争いであった。それが民族対立に挿げ替えられた。
  政府権力に近い者が自らの権力の維持という目的のため、民族問題を手段として利用する中で発生したものであった。

100日で100万人という規模になったのは、武器が流入、民兵組織が多く組織されたからである。また虐殺命令、地方まで行き渡ったのは、地方行政のラインにそって、 虐殺を行なった側と、民兵が結託し、行政ライン使ったため、すみずみまで広がったのであろう。

イスラエル・パレスチナもそうだが、民族が違うというだけでは対立にならず、政治・経済の利害が絡んだときに争いなる。それが顕著だったのがルワンダだった。

映画の中で、なぜ、報道官は「虐殺」を認めず大量殺戮と言葉を濁していたのか?

(映画の中で)
記者が「ジェノサイドでは?」
報道官「ジェノサイド的なもの」と言葉を濁した。
  ジェノサイド条約:正式名称 集団殺害罪の防止および処罰に関する条約。集団殺害を国際法上の犯罪とし、防止と処罰を定めるための条約。"ジェノサイド"を定義し、前文および19か条からなる。
  →ルワンダの1994年のケースを"ジェノサイド"と認めると本条約に関与した責任が生じる。

当時国連、安保理は介入したくなかった。
  その背景として、1993年のソマリアへアメリカの介入があった。アメリカ軍が巻き込まれて、多くの犠牲がでた(映画:『ブラックホークダウン』)。そして、アメリカで反対の世論もあり、明確な国益がない場合は介入しない方針に転換し、ソマリアから撤退した。

また、当時の国連は、旧ユーゴの内戦への関心がより高かったのではとも言われる。
  つまりは、ゆとりがなかったから介入を嫌がったのだ。

虐殺が終焉した後〜現在のルワンダの状況はどのようであったか?

200万人の難民(人口の4分の1)96〜97年に帰還した。
  自分たちの土地がすでに他人に住まわれていたり、また夫をなくした女性も多かった。また、女性は民法の主体ではなかった。

戦後、RPFが勝って、RPF主体で政府再建が進められた。
  大統領がツチ、副大統領がフツというように、フツ・ツチとの調和が保たれた。
  しかし、徐々に強権化してきたとも言われる。

今ではキガリは、夜、歩いても襲われることはなくなった。しかし、貧富の格差は目に見えて拡大している。
  高層化が進み、ショッピングセンターが立ち並ぶようになった一方で、貧民層の人たちは、建物を立て直さないと出て行かされることになっているため、困窮している。

その他の質問について

質問者1「最終的RPFになぜ勝利得られた?映画(『ホテル・ルワンダ』)では劣勢だったが?」
小峯氏「軍隊が強かった。ムセヴェニ大統領がゲリラ開戦をしていたところ、RPFも協力していた。実戦経験があり、装備も整っていて、また士気が高かった。RPFは味方の遺体を夜に全部回収した。団結力強かった」

質問者2「戦っていたときの武器はどこから?」
小峯氏「当時の正規軍の武器はフランスから。治安維持という名目で輸出していた。裏の意図としては、『フランスの既得権益を逃さないぞ』ということだったと考えられる。ヒューマンライツウオッチなど、メッセージ発信している人はいたが、取り入れられなかった」

質問者3「中国から武器(ナタなど)を安く手に入れたのか?(『ホテル・ルワンダ』より)」
小峯氏「武器として支援しているわけではなかった。ルワンダは農業国であり、ナタは元は農機具として輸出していたものだった。ナタは象徴的だが、実際には、現代的な兵器ないとたくさんは殺せないと指摘する人もいる。ナタだけのせいではないのでは。手榴弾や自動小銃などが使われたのだろう」

質問者4「映画『sometime in April』を見たが、先頭に立った組織はその後どうなったのか」
小峯氏「その組織は"インテラハムウェ"と呼ばれている。RPFが駆逐していった。多くは難民キャンプへ。彼らは普通の格好していたため、民兵か難民か区別がつかず、誰がだれだかわからなかった。ネットワークは生きていたから、反撃の準備していた。いずれにしても、民兵集団としての実態はもう解散していた」

質問者5「@女性は虐殺に加担したのか。ARPFにはどれくらい女性いたか」
小峯氏「Aについて・・・現役ではいるが、詳しくはわからない。@について・・・映画などでは、女性による虐殺シーンはなかった。刑務所で聞いたが、女性でも殺人に加担した人の話は聞いたことがある。女性は女性を、子供は子供を殺せと民兵から命令されたということもあったと聞く」
アフリカンライツ:女性で虐殺に加担した人のインタビュー結果をまとめた本を出している。→「Not So innocent」

質問者6「100日間で100万人。その中で国際社会は何も出来なかったという歴史が刻まれた。その反省をもとに国連などで、地域紛争に関わる動きはあったのか?」
小峯氏「ルワンダ虐殺の後、国連は国際刑事法廷を設置した。虐殺に加担した人を裁く。真相解明。UNHCRなどの国連機関も再建に協力している。ルワンダ虐殺以降、平和構築という概念広まる。平和構築委員会が創設され、ばらばらにやってきたものを総合的に対応していこうという機関生まれている。安保理改革のときは、「ルワンダを忘れるな」ということがよく言われる」

VHS映写――――――
昨年3月、ルワンダで撮って編集した画像(ルワンダプロジェクト第一次報告)を流す。

VHSに関する質問

質問者1「ルワンダの人々は、今も身分証持っている?今も一緒に住んでいる?気持ち的な切り替えは?」
小峯氏「身分証明書は、新政府によって民族表記はなくなった。ルワンダは、昔から、小さい村でも混合して住んでいる。ボスニアヘルツェゴビアでは民族が地理的に分かれているが、ルワンダはまだらであった。
心理的状況としては、全てのフツもしくはツチが憎いというわけではない。直接的殺したり殺されたりの関係ある中に怨恨はある。フツが一致団結してツチの虐殺を行なったわけでもないので。
NGOの支援により、ワークショップ開いて許しあう機会を作っている。そこでは、被害者と加害者が向き合い、関係を修復したり、許しあう心を持ち合ったりできるような環境づくりをしている。
ARCの洋裁学校では、女性の生活支援として、収入向上の目的の他に、生活の苦労持っている人たちが苦労を分かちあって癒しあう。
最初の技術得る前では、路上で野菜売ったりしていた。しかし路上販売禁止された今、家族を失って、過去にとらわれていた人が、自分もプロフェッショナルになれるという自信を持つことができる。
ある技術習得者は、近くに住んでいた虐殺側の人にも技術得ることを勧めた。一つの区切りがついたのではないか」
ガチャチャ:寄り合い裁判。何を期待して参加しているかを参加者に聞くと、「自分の夫はどのようにして死んだのか」真実を知りたいという。知って改めて埋葬したい。それがわかればもしかしたら加害者を許せるかもしれない、とのことであった。
厳しい現実もある。不利な証言をされると困る人は、嫌がらせをしたり、殺したりする例も報告されている。今では参加しない者は罰金を課せられている、とも聞く。虐殺という過去の人権侵害という行為をどう決着つけるか、また和解へとどう向かわせるのか、取り組みが期待される。

質問者2「@民族紛争、虐殺、民族の話だけではないと。なんでこんな虐殺起こったのかをもう一度。
A他のアフリカと比べたら、きれい。ポテンシャリティの高い国にどのようなことをなしていけるか?」
小峯氏「Aについて・・・経済成長率は高い。国全体としては伸びている。コーヒーに力を入れている。国が小さく海にも面していないので、地理的に厳しい。治安は周辺国に比べて落ち着いているのがポテンシャルでは。小規模ビジネスは外国の資本も来ている。レアメタルもいくつか取れる。またマウンテンゴリラに力入れている。経済発展で言うならば政治が安定していくこと。カガメ時代がどういう風に平和的に後継者にバトンタッチしていくかが大事。
@について・・・いろいろな要素があって一口にはいえないが、規模という点では武器の流入が大きい。正規軍にはフランス、RPFにはウガンダなどが支援していた。冷戦期は国際的に小型武器が広まった。冷戦後も旧ソ連のカラシニコフに象徴されるように、拡散され、アフリカに広まった。しかし、専門家でも「なぜ100日間であれだけの殺害がなされたのか」という人も多い。ルワンダはもともと人口密度が高く、土地をめぐって潜在的な葛藤があったのでは、と指摘する専門家もいる」

質問者3「@一般市民の人たちは避難民なのか。加害者としても加わったのか。A少年兵の方たちが、どういった経緯で海外の軍隊に関わって、どれくらいが少年兵として巻き込まれたのか?」
小峯氏「@について・・・かなり多くの一般市民も加担した。民兵組織などに脅かされて行なった人も多い。通常の裁判だとあまりに人が多いので、ガチャチャという村落裁判の制度も活用されるようになった。内戦後に亡命先からルワンダに戻ってきたという人も多い。そういう人は直接的な虐殺体験はない。
Aについて・・・94年のルワンダ内戦で、コンゴ側に逃れた子供、あるいはそこで生まれた子供などが現地の民兵組織にリクルートされた。その子どもたちが今はルワンダで社会復帰を果たそうとしている。自力で逃れた子供や、国連で保護された子供いる。1人、去年の9月行ってインタビューした子がいるが、ほんとは部隊に帰りたい、と言っていた。部隊が家族のようなもので、家族から引き離されたようなもの、だという」

質問者4「刑務所の映像を前に見たが、寝る場所がないほどの人が詰め込まれていたが、今は?」
小峯氏「4年前に行ってみてきたが、極端な過密は解消されている。ガチャチャを導入したもう一つの理由は刑務所が極端な過密であった。食費もかかるから、コスト削減の意図もあった。ガチャチャ確立後、容疑者釈放されたが、皆逃げないという。不思議に思ったが、ルワンダは、密告含め、諜報機能がすぐれているから、逃げたらばれるらしい」

質問者5「戸籍も抹殺してしまえと言う話あったが今はどうか?」
小峯氏「日本みたいな戸籍しっかりした国は少ない」
(ご来場のルワンダ居住者の方「向こうの人は、口承で、祖先代々の来歴は知っている」)

質問者6「@現在難民として難民キャンプに残っている人はどれくらい?ARPFの資金源は?」
小峯氏「@について・・・もう残っていない。無実の人は初期に帰っていって、加担した容疑のある人たちは最近まで残っていた。 Aについて・・・亡命したルワンダ人、またウガンダの難民からの資金が多かったのでは」

質問者7「今回の映像のスクリーンの裏側は?ルワンダの人たちは不幸せなのか?」
小峯氏「仕事がないといった、不平は聞くが「不幸せだ」ということは聞いたことがない。
今回の映像では、にこやかで明るい子供が多く映っていたが、夜になると眠れない、虐殺時を思い出すと怖い、といって怯える子供は少なくない。日本での報道は視聴率のためか、アフリカの一番被害がひどいところを映す傾向がある」

終わりに

今回の講演は質疑応答が主であったので、実に様々な質問があり、小峯氏もルワンダ内戦という複雑な構図をわかりやすく、丁寧に答えてくださいました。
  最近ではルワンダ虐殺を描いた映画やアフリカの紛争を題材にした映画が多くあり、私たちがアフリカの紛争について学ぶ機会は多くあります。それをきっかけに、アフリカについて興味がもつ人が増えるのはとても良いことだと感じています。
  私たちにできることは少ないかもしれませんが、少しでもアフリカの紛争に関心をもち、考えることは重要なことだと思いました。
小峯氏が「『ホテル・ルワンダ2』『ホテル・ソマリア』という映画を作らないことが大事なのです」と言っていた言葉がとても印象的でした。
  次回まるわかり講座最終回である第五回も乞うご期待ください。

 
 


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