
スタッフ山室がラオス事業に携わってきて #みんなのもの =コモンについて考える[その1]

私は普段、JVCのラオスでの事業に携わり、現地の農村に住む人々が使う森や川、土地といった「みんな」で使う恵みが奪われないよう、奪わないよう、活動しています。

村人と飲む山室
しかし、こういった「みんなのもの」は森や川、土地だけではないと思います。実は都市でも日本でも、どこにでもあって、それらは奪われつつあるように感じます。
みなさんはこんな風に感じたことはありませんか。
SNS上では立場や意見の違う人たちがコメントで争い、分断が深まる…。様々な意見があるのがよいのかもしれないが、怒りすぎだろうと思うことや極端な意見や無理な要求だと感じることも多い。なかには言論の自由を守るべきだと言って誹謗中傷する人もいる…。
自分のどんな言動が友人知人、さらにはインターネット上でつながる人たちを傷つけるかわからない。
稼ぐために忙しく、仕事以外は動画やSNSを観たり、インターネットで買い物をしたりと、ひとり自室で完結しがち(それはそれで便利でラクではあるのだが)。なんとなく生きづらく、社会や「みんな」とのつながりが薄れがち。
一方で友達に限らず就職活動でもSNSは観られていて、どんな人間なのかをいつも発信していないと自分の価値を示せない。
なんだかずっと忙しくて、世界の国々での貧困だとか環境だとかの問題は自分たちの暮らしとつながっていることはわかっているけど余裕がない。しかしそれでは子どもや孫の世代のためによい社会を残せなさそう。
こんな違和感に心当たりはありませんか。私はけっこうこんな風に思っています。JVCで活動を続けていてもこの違和感はぬぐえず、むしろ大きくなっていました。

何かが違う。どうすればいいのか考えていると、こんな風に思います
その責任の一端は自分にもあるのはわかっているが、問題が多すぎてどこから手をつければよいかわからない。自分が何かしたところで変わらないのではないか。
SNSなどで日々目にする極端な言葉のやりあいからは距離をとるのが身のためだ。でも、みんなできちんと話し合う場や時間をもっと持った方がいい。でもそんなことができるだろうか。話し合ったとしても、それってあなたの感想ですよねだとか、知識不足だとか言われるだけかもしれない。
確かにいろいろな問題についてよく知らない。それでも、勉強していない、行動を起こしていないからといって、まるで自分が悪いかのように言われるのは違う。
そう思いませんか。私は思います。
そんなモヤモヤがずっとありつつも活動したり、本を読んだりしてきて、だんだんとこう考えるようになりました。問うべきは自己責任ではなく、そもそもそんなことになってしまっている背景ではないか。ラオスの森や川について起きていることと、この違和感の背景にあるのは同じようなことではないか。違和感の正体を理解するには、ラオスでの活動と同じく、みんなのもの(コモン)がキーワードになるのではないか、と。
身の回りの森や川から自然からラオスの農村の一部では、今も続けられ、「森はスーパーマーケット」。生きていくために必要なものは、お金を払わなくてもなんとかなるという安心感。
でも、村人自身が木を伐りすぎたり、魚を乱獲したりして共有資源(コモンズ)が減る例を見聞きしました。それでも村人を責めることはできませんでした。というのは、生活のために畑を広げたり木や魚を売ったりすることは必要な面も大きいですし、そもそも昔はそんなことはしていなかったことがわかりました。
昔は大量に魚が捕れたとしても、みんな豊かな自然から食べ物をとれるし、そうそう買い手いませんでした。多く捕ったところで食べきれず、腐るだけであれば、親戚やご近所にあげて、交流や助け合いのためにする方が得策でした。
いつもは自分たちで食べる分だけとれば満足ということになります。また、あんまり独り占めにすると白い目で見られもしたでしょう。木も木材にして家などを建てるのも大変な作業であり、あんまり多く持っていても使えません。なくて困っている人にあげて、後で何らかの見返りをもらう方がよいでしょう。
こんな風に、とりつくさずに「みんなのためにとっておく」のが当たり前でもあり、得策でもあったのです。村人たちは大量の伐採や乱獲などしませんでした。
ところが、2000年代になってから、プランテーションにするために森を伐り、発電ダムのために川をせき止めるといった大規模な開発が進み「みんなのもの」を一方的に囲い込んでしまうということが起き始めました。
同じころ、舗装されたいい道ができ、仲買人が村に来て魚や木材に買い手がつくようになると、できるだけ多く売りたいという人も出てきます。そして、このころに重機やチェーンソー、ボートのエンジンなども入ってきます。
これらによって伐採や製材能力、漁獲能力が飛躍敵に上がり、機械での伐採や乱獲が始まりました。そして得たお金でバイクを買い、街中にまでまた売りに行くようになり、それが当たり前になると燃料代や新車代を稼ぐため、いつも売るためにとるようになっていく...みんなのものを一部の人がとってしまうことが始まったのです。
内田樹さんという哲学者がコモンについて書いたことを紹介します。
「コモン(common)」というのは...「町や村の共有地、公有地、囲いのない草地や荒れ地」のことです。 昔はヨーロッパでも、日本でも、村落共同体はそういう「共有地」を持っていました。それを村人たちは共同で管理した。草原で牧畜したり、森の果樹やキノコを採取したり、湖や川で魚を採ったりしたのです。 ですから、コモンの管理のためには、「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りが必要になります。 コモンの価値というのは、...そこで草を食べて育った牛の肉とか、採れた果実やキノコや、あるいは釣れた魚の市場価値を足したものがコモンの生み出す価値のすべてであるわけではありません。それよりはむしろ、「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りができる主体を立ち上げること、それ自体のうちにコモンの価値はあったのだと思います。
(内田樹、2020『コモンの再生』文芸春秋より引用)
コモンとは、「みんなのもの」です。みんなのために使われるべきもので、どうするかをみんなで決めるべきものです。そして、他の人のためにとりつくさずに残しておいたり、話し合ったりすることによって、「みんなのために」という気配りができる人たち、仕組みが根付いてきたのだと思います。それがいつの間にか、みんなのものを一部の人が囲い込んで、とってしまうことが始まったのです。

森を伐り開いてできたキャッサバ畑とゴムプランテーション
するとだんだん「みんなのため」と考えるのでなく、「自分だけのため」「売るため」が当たり前になってきてしまったようです。
ラオス農村では森や川がスーパーマーケットのように、食糧や収入の源として、特にいざという時のセーフティーネットとして長らく機能してきました。
このような生きていくために必要なものがお金を払わなくても、身の回りでなんとかなるという安心感。「みんなのため」にとってあるという安心感。これがなくなってしまうと不安になり、いつまでも四六時中稼がないといけなくなり、世知辛くなってくるのだと思います。なんとなく感じる生きづらさの原因もここにあるような気がします。
生きていくために必要なものは、ラオス農村では森や川、農地など、目に見えるものですが、もちろん現代の日本にもあるはずです。まずはお金、そして収入源ですよね。これがないと現代日本ではどうにもならなくなっています。無職には風当たりが強く、なかなかゆっくりもできない人も多いでしょう。いまや夫婦共働きが当たり前ですし。借金を苦に自殺する人もいますし、過労死が日本では多いと言われています。
ラオスでは農村に限らず、家族や親せきと一緒にいれば助け合うのが当たり前で、居候はよくあることです。農業などの生業、家事の手伝いも立派な仕事(ウィアック)です。土地があって米などをつくっていければ飢えないですし、それこそ農村ではスーパーマーケット代わりに森を使うこともまだ多いです。
無職だからといって特段風当たりが強くはないのを感じます。少なくとも日本よりはずっと。家族や親戚、時には他人同士も助け合うことも生きていくために必要なものだと感じることが多かったです。自然に「みんなのために」助け合う仕組みが根付いていたのだと思います。
家族や親戚など、いざという時に助けてくれる人も、みんなにとって生きていくために必要なものです。それがだんだんとお金を便利に使うことができるようになると、自分では食べ物やモノをつくらずに外で買うようになり、バイクやスマートフォン、車などを買い、それを維持するため、いつも稼がないといけなくなってきます。
そのために、以前はとりつくさずにみんなのためにとっておいたところが、木を伐って売ったり、森を自分の農地に囲い込んだりすること、つまり「みんなのものの囲い込み」が進んできます。もちろん外部の企業がプランテーションにするためにとってしまうのも「みんなのものの囲い込み」のひとつです。
だんだんとラオスの農村も「みんなのための気配り」から「自分だけのための囲い込み」へと移り変わっているのを感じます。そしてこんな変化は現代日本でもいろんなところで生じてきているように見えます。
例えば、生きていくために必要なお金や収入源を確保するために、大学生はバイトや就職活動に忙殺されがちではないでしょうか。就職できた後も無職というだけで風当たりが強く、なかなかゆっくりもできない人も多いでしょう。しかし、60年くらい前になりますが、週1日くらいバイトすれば国立大学文系の学費は自分で稼げる時代もありました。社会的活動やそれこそ「みんなのため」を考え、そのための活動に割く時間は今よりもかなりとりやすかったはずです。
仲間とそんなことを話し、社会的活動に結び付けていくことを日々していたりすれば、「生きづらい」や「ひとりぼっち」という感覚はなかなか覚えないのではないでしょうか。たとえひとりでも社会的活動や趣味などに没頭していれば、少なくとも「生きづらい」とは遠くなっていくような気がします。
しかし、お金がなければ生きづらくて当然、自業自得だという風潮は強まってきていると感じます。昔は日本でもけっこういたという居候も、いまではなかなか考えられないでしょう。いざという時に助け合えるつながりや制度、例えば生活保護などの社会福祉に関して、「税金泥棒」「自助努力が足りずにそういう状況に陥った人たちには助けなど必要ない」といったバッシングが強まっているようです。
現代日本で生きていくためにお金そのものや収入源(職業)を確保するために必要なものは、ほかにも様々なものがあるのではないでしょうか。例えばインターネットはどうでしょうか。スマートフォンを持っていないと仕事での連絡がとれない、インターネットで何か調べたり、やりとりしたりする方法を知らないと仕事にならない。
友達づきあいでも就職活動でも、SNSや就職サイトに登録しないと連絡が取れないし、サイト上で自分がどんな人間であるかを示していかないと価値を認められない。それが現状ではないでしょうか。インターネットが必要ない仕事や友達づきあいなど、今やほとんどないと言ってよいかと思います。
みんながもはや生きていくために必要になっており、インターネットやSNSもコモンと言えると思います。しかし、みんなが使う(当たり前になっていて使わないわけにはいかなくなっている)ものなのに、みんなが管理できないように囲い込まれてしまってはいないでしょうか。
いや、インターネットは(ほとんど)無料で使えるじゃないか、一部の人だけしか使用できないわけではないではないか、という人もいるでしょう。確かにその通りです。だれでも使えて便利です。便利すぎて、ついついずっと見入ってしまうことは誰にでもあるでしょう。私もあります。インターネット回線が使えなくなったら仕事になりません。私もそうです。そんなみんなが無料で使うなかでの囲い込みは、広告料を通して起きています。
いや、インターネットは(ほとんど)無料で使えるじゃないか、一部の人だけしか使用できないわけではないではないか、という人もいるでしょう。確かにその通りです。だれでも使えて便利です。便利すぎて、ついついずっと見入ってしまうことは誰にでもあるでしょう。私もあります。インターネット回線が使えなくなったら仕事になりません。私もそうです。そんなみんなが無料で使うなかでの囲い込みは、広告料を通して起きています。
SNSやインターネットは便利です。私たちの暮らしを大きく変えました。それを使うあなたが悪いのではありません。投稿し、色んな人たちとやりとりするのが悪いというのではありません。その仕組みを金儲けや一部の人にとっていいように使えるようになってしまっていることが問題です。
極端な言動や暴力によって注目を集めるというやり方のほか、みんながつくったものをオーナーだけが囲い込んで管理して、儲けるために使われている例があります。AppleストアやYouTubeといったプラットフォームです。自分で撮って、編集した動画を公開、共有するのは無料だとしても、それによる売り上げや源となる広告料の多くをプラットフォームのオーナーが持って行ってしまいます。あなたにいくらをオーナーに譲るのか決める権限はありません。そんなことは当たり前と思われるかもしれません。実際、最初のうちは多少の料金をとらないとオーナーもやっていられないでしょう。
しかし、ほとんどの人、いやみんなが使うまで普及すると話は変わってきます。他のサイトに公開してもだれにも見られなくなってくると、オーナーが極端な言動や暴力を助長して稼いだり、オーナー自身は全く手を動かしていないすべての動画につく広告料を徴収したりしても、みんなには他のプラットフォームを選ぶことは事実上できなくなってしまっています。実際にGoogle八分と呼ばれる、Google検索やGoogle Mapでサイトや店の位置が表示されなくなって、経営が立ち行かなくなったり廃業したりする例もあります。
また、そもそもInstagramにせよYouTubeにせよ、みなさんが観ているのはオーナーである企業がつくったものではなく、みんながつくっている動画などのコンテンツです。これがあって初めておもしろくなり、視聴されるものなのに、手数料や売り上げを徴収され続けれていては、なんだか休みの時間もオーナー企業のために働いているようなものです。そのほかにも、おすすめの仕組み(アルゴリズム)によって、みなさん個々人に合わせた広告を出すなどして、何に関心を持ち、買うかの行動誘導もなされています。
注目を惹く過激な行動も再生回数のためにあおられたものかもしれません。それがいつのまにか、自分ファースト、排外主義、他者を貶めるといった言動が日常的で当たり前になっているように見えるいま、インターネットというコモンは一部の人たちに囲い込まれてしまっているのではないでしょうか。
立ち止まって考えてみましょう。みんながあらゆることを調べ、知るためのWebサイトや動画、地図といったプラットフォームは、みんなの手で、みんなのために管理されるべきではないでしょうか。このほかにも、税金を主たる原資とする公的資金、どんどん熱くなる大気(気候変動)などについても、もっと「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」できることはありそうです。
そんなみんなのもの=コモンを改めてみんなのものとして取り戻し、みんなでどうするか決めていこうということ。そんな例や考えを私は「 #みんなのもの =コモンについて考える」というテーマで、この活動レポート(ブログ)やSNSで発信してみたいと思います。よければご覧ください。そして、共感するところがあれば伝えてもらえればと思います。