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パレスチナ

パレスチナ・ヨルダン川西岸地区のジェニン難民キャンプへの攻撃について

イスラエル軍によるヨルダン川西岸地区の難民キャンプへの突入や捜索は日常的に実施されていますが、6月19日に大規模な戦闘に発展しました。ヨルダン川西岸のジェニン難民キャンプで起きた衝突の中で、第二次インティファーダ*(2000~2005年)以降初めて、パレスチナ側の武装グループが爆弾を使用し、イスラエル軍もジェニンを脱出する兵士らを援護するという理由で攻撃ヘリコプター(主にロケット弾・対空地ミサイル・機関砲等を搭載し、攻撃を専門として設計されたヘリコプター)を用いた攻撃を行い、パレスチナ人5名が死亡、90名以上が負傷し、イスラエル軍側も7名が負傷するという事態に至りました。

いったん戦闘がおさまった数日後、7月2日にイスラエル軍が再びジェニンで、大規模な軍事作戦を行い、6月に続きヨルダン川西岸地区ではこの約20年間で初めて空爆が実施されました。イスラエル側は、ジェニン難民キャンプが”テロリストの拠点になっている”とし、武装組織のインフラと武器の破壊を目的として急襲作戦を開始。無人機のほか、1,000人以上の兵士が投入され、20回に及ぶ空爆や銃撃戦で、多くの道路や家屋、インフラが破壊されました。今回の作戦で少なくともパレスチナ人12人が亡くなり、140人が負傷、イスラエル兵1人が死亡しています。

3,500人ほどの人々が一時避難しており、軍事作戦は2日間で終了しましたが、難民キャンプ内のインフラ、そして900以上の家屋が甚大な被害を受けました。

国連のグテーレス事務総長はこの軍事作戦について、「明らかに過剰な暴力の行使があった」と批判しています。

 *インティファーダとは、イスラエルの占領地においてパレスチナ住民により組織的に展開された占領支配に抵抗する運動。 語義は,「頭を上げる」「(恐怖を)振り払う」から転じて「蜂起」を意味することとなったアラビア語。(コトバンク


現地SNS(TIMES OF GAZA)より

日本のニュースではほとんど取り上げられることがありませんが、パレスチナの状況は日々悪化しています。この1,2年でパレスチナ・ヨルダン川西岸地区での、イスラエル軍とパレスチナ武装グループとの衝突が増える中、昨年12月にイスラエル史上最も右寄りのネタニヤフ政権が誕生し、ヨルダン川西岸地区での入植活動を加速させています。各地で入植者によるパレスチナ人への嫌がらせや暴力も激化し、パレスチナ人による入植者を狙った事件も増加しています。

いかなる暴力も許されるものではありませんが、ニュースなどを見ていて気になるのは、パレスチナ人だけが”テロリスト”というレッテルを貼られていることです。武装グループに所属している人に限らず、パレスチナ人全体に対して”テロリスト”という言葉を使う人もいます。

パレスチナはイスラエルにより占領されている立場にあり、人びとは日々、差別や暴力に晒されています。そんな状況下で生まれ育った人の中には、自分たちが先祖から代々引き継いできた土地や、自分の周りの人たち、そして自分たちの人権や尊厳を守らなければ!という強い思いから、中には過激な行動に出る人たちがいます。

力によって占領・抑圧され、自分たちの大切なものや本来持っているべきものが奪われていくという状況の中で、”テロリスト”というレッテルを貼られ、自分たち自身を守る言動すら批判され、世界から孤立する。自分がそんな環境の中で生まれ育ったら、どんな考えを持つだろうかと考えることがよくあります。答えはもちろんわかりません。

パレスチナの人たちからは、「なぜ何もしていない自分たちをテロリストと呼ぶのか」「空爆に泣き叫ぶ子どもたちがテロリストだというのか」「あなたたちがしているように、自由に移動して、普通の生活をしたいだけなのに、なぜ私たちパレスチナ人にはそれが許されないのか」「自分たちは世界から無視されている」「外の人たちにこの現状を伝えてほしい。知ってほしい。」といった言葉をよく聞きます。

パレスチナに限らず、”誰かがテロリストと呼んでいるから危ない人たちなんだ”と鵜呑みにするにではなく、その人たちがどのような暮らしをし、そういった過激な思想や行動が何によって生み出されているのか、ということを知り、考えることも重要だと思います。

JVCは現在、ヨルダン川西岸地区では事業を実施していませんが、現地でいま起こっていることをお伝えし、それを通じてみなさんと考える機会になればと思い、今回ジェニンで起こった出来事をお伝えしました。


現地SNS(TIMES OF GAZA)より 

<ジェニン難民キャンプの住民から>

私の名前はサラームといいます。

7月初旬、私は帝王切開の手術での出産を間近に控え、7月3日(月)に入院する予約をしていました。しかし入院当日の朝、私は爆発音や銃声で目を覚ましました。その後、担当医から「ジェニン難民キャンプに行くことができなくなった。大変申し訳ない。」という電話を受け、私は精神的にも身体的にも酷い状態に陥りました。

私が住んでいたところは、イスラエル軍が侵入してきた場所からとても近く、両親の家に避難しようとしましたが、2日間その場から動けなくなってしまいました。私たちは、自分たちで避難する全てのオプションを諦め、救急車を呼び、その場をなんとか脱出することができました。

無事に出産することはできましたが、そこら中にいたスナイパーの姿を見て、いつお腹の子どもや自分の命が失われてもおかしくない状況にとても強い恐怖を覚え、それが今でもトラウマになっています。

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私の名前はマドレインといいます。

私は、アル・ジャラメという検問所のとても近くに住んでいるため、イスラエル兵が検問所を越えて街に入ってくるのを見ていました。その兵士の数に、人びとは恐れおののき、子どもたちは消えて通りは空っぽになりました。その光景はとても恐ろしいものでした。

イスラエル軍が実際に街に侵入する前から、ドローンや軍用機がそこら中を飛んでいて、緊張感、治安への不安、恐怖などを感じていました。その時、私の家族はイード休暇のためヨルダンに行っており、私は1人で家に残っていました。私は悪夢でほとんど眠ることはできませんでした。

イスラエル軍による侵略が起きた翌朝、私は愛するジェニンの街のいたるところが破壊されている様子を目の当たりにしました。私の家の壁にも銃痕が残っていました。ヨルダンにいた私の家族は私の安否を確認するために何度も電話をしてきました。街の人びとは皆、最低限必要なものを買いに出ることすらできませんでした。

侵略中に家族を守ろうとした若者が何人も亡くなり、100人以上の若者が逮捕され、そんな酷いことが起こった後にも関わらず、翌日イスラエル軍が撤退した後、街の人びとは破壊された道路や家や店などの片付けを始めていました。この街の人たちはレジリエンスがあり、自分たちに出来る限りのことをやっています。しかしこれは占領であり、いつの日かこの占領が終わることを願っています。

ジェニン難民キャンプの状況は、メディアで伝えられているよりもはるかに大変です。メディアに取り上げられていない問題が山積しています。私たちは世界からの真の連帯、そしてこの占領という犯罪が世に明らかにされることを求めています。

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インタビュアー
JVCエルサレム事務所スタッフ
アヤット・ヤグムール

執筆・翻訳
パレスチナ事業 エルサレム事務所 現地調整員
大澤みずほ

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