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日本

スタッフインタビュー2020 第4回: 広報/FRグループ担当 木村 茂

※本記事は2020年度に書かれたインタビューです。

こんにちは!2020年度広報インターンの庄司です。
今回は、広報/FRグループを担当している木村茂さんにお話をお伺いしました。学生時代の訪問以来、合計10数年の長きにわたってタイで過ごしたという木村さんは、JVCのタイ現地駐在員でもありました!(ちなみに、卒業式の日もタイにいたそうです!笑) その後一度独立し、再びJVCに戻ってきた木村さんがいま思う、「国際協力」とは何か...!
ぜひ最後までご覧ください!

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(さて、今回も始まりましたオンラインインタビュー。何度やっても緊張します!笑
下:木村さん、左上:金岡、右上:庄司)

自己紹介からお願いします!

1965年、東京の杉並区に生まれました。小学生のころから山登りが好きで、奥多摩などの山によく行っていました。大学は早稲田の探検部に所属して、「日本の3,000メートル峰には全部登ろう!」と意気込んでいましたが、2, 3峰を残して卒業になってしまったという思い出があります。この経験は、日本の自然について知る大きなきっかけになりました。
探検部の活動で北タイの少数民族"ラフ"の村に住まわせてもらったことで、ものの見方が変わりました。「世界は広いな」と。
海外って、聞くと見るとじゃ大違いじゃないですか。文化的な背景の違う人たちと接したこと、何の役にも立たない都会の大学生の自分が、ことばも通じない村で受け入れてもらえたということに、大きな驚きがありました。「異文化に接すること」や「農村での生き方」に興味を持ったきっかけです。

4年間はバイトしてはタイに通い、国内では山に登り、最後に東チベットの開放されていない所にも突っ込んだりして。あまりに面白いのでもっと勉強したいと思い、大学院に行きました。
その後、大学の教員になりましたが、もっと村人と直接触れ合う仕事がしたいと思って、JVCに来ました。タイの現地駐在員を担当した後に一度JVCを離れますが、2015年に再びラオス事業の東京担当として戻り、2020年度からは広報/FRグループに所属しています。

タイやチベットの人たちの暮らしについて、どんなことが印象に残っていますか?

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(北タイ・チェンライ県のラフの村で撮影された、大学1年生の木村さんです...!)

当時、北タイの少数民族の人たちの多くにはまだ国籍がなかったんですよ。実にさまざまな法的、政治的に不当な扱いの下に置かれているにもかかわらず、後回しにされたり蔑ろにされていました。
北タイの国境地帯では、国境を自由に行き来しながら生きている人たちがたくさんいました。国境を越えたビルマ側ではずっと戦闘が続いていました。そこでは日常的に麻薬が売り買いされていたし、ある日突然、誰かが殺されたり、小さい子どもたちが売られていくような現状を目の当たりにしていました。

東京の何の不自由もない家で育った人間からすれば、毎日が驚天動地なわけです。なのに、村に住んでみると、同じようにご飯は食べるし、たわいもないことで大人たちが喧嘩してたり、かと思えば子どもたちが目をキラキラさせながら土や石で遊んでいたりする。こういった事を見て、問題は村人にあるのではなく、法律や制度のほうがおかしいのではないかと思うようになりました。これは深刻な問題だと。

ー最初は言葉もわからなかったけど、同じ土地で生活を共にし、地道に彼らとコミュニケーションをとる中で、そういった現状を徐々に理解していったんですね。

そうです。いろんな民族がいるなかでも"ラフ"という民族の村に住み込ませてもらって、ラフ語をカタカナでノートに書いていきました。例えば本を見て村人が「リ」と言うので「リ」=「本」かな、みたいな感じです。
そのうちローマ字を使って書かれたラフ語の聖書があるのを知って、あぁ、こんな奥地にまで宣教師が入っていたのかと知った気になったり。しかし実際にはベトナム戦争の時CIAにいたおっちゃんが、村で普通に生活していたりも。北タイを世界の僻地と思っていた私の方が、実は偏見にまみれ、何も知らなかっただけのことなのでした。そんなことに気づいてからは、毎日必死で村人にことばを教わり、最後には簡単なラフ語の会話集を作って自費出版しました。

ーそれきっと日本初ですよね?

たぶんそうですね。専門家の論文などは出てるけど、いまに至るまで公刊された会話集はないと思います。でもまあ、次の会話集が出る前に、ラフ語話者のほうが少なくなっているのかも知れません。ことばという人々が紡いできた一つの知恵がなくなっていくということは、とても残念ですが。

JVCに入職したきっかけを教えてください

国際協力という分野に就職したいと思ったことは、ありません。大学での経験を経て、教員という仕事も素晴らしいと思いましたが、私としてはもっと農村開発の現場に行って仕事をしたいという気持ちが強くありました
それでNGOなどをネットで検索し、30歳を過ぎて子どももいたので、ある程度収入があって、タイの経験が活かせる職場を探しました。行く先はどこでもよかったのですが、やはり経験のあるタイの農村関係ということで、JVCが候補にあがりました。当時JVCがバンコクで行っていた、ノンジョク農園の村上さんを知っていたということも関係しています。JVCの持続的な農業の活動は、当時からよく知られていました。

その後JVCをやめ、タイのチェンマイを拠点とした「特定非営利活動法人 Link・森と水と人をつなぐ会」を設立したんですよね?

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(2005年、森林の保全活動を行う村人とGPSで村の境やコミュニティー林の測位を行っている様子 Link活動当時)

JVCで働きながら、農村の土地や環境の問題に関わる活動ができないかと思っていました。しかし当時JVCが行っていたのは、有機農業の普及などを念頭においた活動でした。東京に対して書いたレポートでは、「有機農業に関しては、すでにいい活動を行っている団体がある。私は住民参加型の土地問題や森林などの資源管理に関するプロジェクトを行いたい」と提案したのですが、通りませんでした。
結局JVCを離れ、タイ人の仲間と共に"Link~森と水と人をつなぐ会"を設立して、活動を始めました。「住民のニーズ」を一から探るワークショップを繰り返し、村に伝わる伝統的な機織りを収入向上につなげるような活動などいろいろやりましたが、最終的には、村の人たちが土地や環境を自分たちで保全することを中心に据えたいわば村おこしを、活動の中心に据えていきました。

ー有機農業に関する調査、収入向上支援から資源保全を中心とした村おこしまでやってみての感想をお聞きしたいです。

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(2007年、Linkの活動を視察に来たラオスの行政官に対し、チェンマイにおける村人による資源保全活動の支援について説明している様子だそうです!)

私は地理学をやってきたので、その知見を活かして活動できたと思いますが、毎日は失敗の連続でもありました。無我夢中でした。
10年間振り返っての反省を一つ言えば、もっと政策をよく読み込み、同時に社会の流れを深く理解して自分たちの活動を位置づけていれば、よりいい形の活動ができたのではないかと思っています。

村おこし支援では、21の村で土地利用図や村の歴史、村に棲む生き物のデータなどを記載した『村の百科事典』を作りました。村長のなかには「これで村のことは全て説明できる。この中に全部入っているから、寝るときも枕元に置いている。うちの村だけはこれがあるから、会議でもすぐに何でも答えられる」と言ってくれた人もいます。村の人が村のために情報を活用できるように支援できた一例かと思います。

過去の衛星写真も使って土地利用の変化を地図化し、かつて村人の土地だった場所が、いまはどれだけプランテーションに取られたかの実証に使ったり、河川と灌漑の経路から水質汚染の原因を想定して問題に取り組もうとする村人の支援につながったこともあります。

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(2008年、山あいの中学校で、教員同士のネットワーク構築を通じて環境教育の普及を模索していた際の一コマ Link活動当時)

また、村の森や川に棲む生き物の増減を、中学校の環境教育の教材に使っているケースも。例えばですが、自分の土地の歴史や災害の危険性、避難場所につい知りたい!といった時、庄司さんが住んでいる市では、行政の地図などの情報はきちんと保管されていて、すぐにアクセスできますよね。それが、15年前のタイにはほとんどなかったんです。そこで私たちは、そういうものの事例を提案しようと21村で活動し、できた冊子を村と行政機関、図書館などに置いてきました。それが村の問題を解決する際の一助になっていたら、嬉しいと思っています。

帰国を決めた時は、どこも村の人たちが村中で集まってくれたり飲み会を開いてくれて。4~5日かけて全部の村を回りましたが、ほんとに寂しかったです。
特に卒論をかいたラフの村と、修論を書いたコンムアン(民族名)の村(これらでも活動を行った)、Linkになってから一番お世話になったパカニョ(民族名)の村、この3つの村は、いまも「自分の村」のように感じています。いまの自分を形成するには、なくてはならない存在でした。ただの「活動村」というような簡単なものではありませんね。

学生の頃から今に至るまで、多くの時間を特定の村で過ごした木村さんのアイデンティティが気になります

私は日本人として生まれ育ちましたが、ラフや、タイの村の人たちに出会ったことによって、日本人的なものの一部を失ったのかも知れません。
経験も少ない私が日本人一人で村で暮らしていくうえで、必然的にそうせざるを得なかったこともあるかも知れない。でも自分から、日本的な発想の仕方をこっち(タイ)のそれに入れ替えていった部分もあったかと思います。そしてそれは、決して悪くないことだと思っています。

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(2013年、中学校にあるパソコンを使って地域理解の模擬授業を行っている時の様子です。)

あくまで例えですが、私のいわゆる"日本人性"みたいなものが最初100あったとすると、タイなどでさまざまな人たちに出会ったことで、そのうちの20を失った。
でもラフの村で"ラフ性"を20、コンムアンの村で"コンムアン性"を10、パカニョ―の人たちから同様に10の発想や文化習慣みたいなものをもらえていたとしたら、合計で120になり、自分としては、そこで多様性や豊かさみたいなものを得ることができたとするなら、それはそれで嬉しいことだなと思っているんです。
人は辛いこととか嫌なことなど、さまざまな経験をすることで人のことがより分かるようになります。そういう意味では、いろいろな背景を持つ人たちに接し、共に暮らせた経験には意味があるのではないかと思っています。

木村さんにとって国際協力とは何ですか?

いままで国際協力をやりたい!と思ったことは、ありませんでした。ただ、日本が島国だという意識はあって、学生の頃から国境にとらわれずに広い世界を見たかった。だから探検部に入って、実際に外に出てみたら、テレビで観たドキュメンタリーなんかより全然面白い現実があって、以来、自分がどう生きていきたいかを常に模索しながらこの道を歩んできました。タイやラオスで私がやってきたことはどれも、"国境を超えたからやらなければいけないこと"ではないと思っています

一方で最近は、問題への取り組みをより確かなものにするためには、国を超えるからこそ必要な、物事の捉え方や発信のスキルがあると感じています。
私たちの関わる社会の問題の背景に、日本との関係が重要な要因としてあったりする。紛争問題も含め、「国際協力」という枠できちんと学んでいかなければならないノウハウ、蓄積、経験があると思います。JVCに再び戻ってからはそれをより強く感じるようになり、「国際協力」を意識するようになりました。こうしてJVCの活動を見直してみるととても面白いし、可能性も感じます。

農村に暮らす人がいて、都市に住む人たちがいる。技術革新と環境問題、資本主義の限界なども視野に、ここまで破壊してしまった環境や拡がってしまった格差に、国際協力の分野がどう取り組んでいけば、人として一人ひとりが認め会える社会を築いていくことができるのか、これからも考えていきたいと思っています。

インタビューをしてみて…

今後は「いろいろな人にお世話になってここまで来たので、引き続き誰かのためになる仕事ができたら」と話す木村さん。
学生の頃からやりたいと思ったことに突き進み、多くの経験をされてきた木村さんはとてもかっこよかったです。また、日本国外問わず、世界中に溢れる「異文化」に対する好奇心をとても感じました。
お互いを受け入れ合う、理解し合い共存する、多文化共生についてもいつの日か深堀りしてみたいです!

最後までお読みいただき、ありがとうございました!
それでは次回も、お楽しみに~!

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