REPORT

パレスチナ

ガザが泣いています。

私がガザ地区に最後に入ったのは、今から約1ヶ月前でした。その時は1週間ほど、JVCが子どもたちの栄養状態を予防・改善するための事業を実施してきたガザ市内とジャバリヤ市内を回っていました。私は、2011年に駐在を開始してからこれまでに、十数回ガザ地区に行きましたが、貧困と停電と医薬品不足と空爆で苦しむ中でも、ガザの人々はみな、見ず知らずの外国人の私を皆笑顔で歓迎してくれました。

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JVCが実施中の「子どもたちの栄養失調予防事業」で働くボランティア女性(右)と、貧血検査を怖がって泣く女の子。ガザ地区中部のジャバリヤ市にて。(2014年5月20日)今野撮影

ガザ市はガザ地区の中でも豊かな方に入ると言われていますが、それでも外壁もペンキもないコンクリート剥き出しのビルの中で、6畳程度の部屋に3,4人の家族が暮らしているのが普通でした。住む場所の限られたガザでは、破壊された家から取り出した鉄筋やコンクリートで作られた高層ビルが所狭しに並んでいて、爆風だけで倒れてしまうのではないかといつも心配でした。私の訪問中も、イスラエル戦闘機の爆音(ソニックブーム)がたまに聞こえ、私だけがビクっとしていました。

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ガザ市東部の住宅地。イスラエルとの境界に近いこの地域も、現在激しい空爆にさらされている。(2014年5月19日)今野撮影

どこに行っても、封鎖の影響で停電が1日のうち16時間続き、国連やNGOや自治政府からの援助で食いつないでいる人たちばかりでした。それでも食糧は足りず、近所の食料品店で借金をして、たまに仕事があるときに(主に国連やNGOが実施する「Cash for Work」という軽作業)借金を返している家がほとんどでした。10人家族で1人でも定職に就いていれば恵まれた方でした。建設業に勤めているという男性も、封鎖下でコンクリートが入ってこないという理由でずっと失業したままでした。

仕事もなく、電気もなく、何もすることがないから、厳しく躾けないと息子たちが自殺してしまうと、NGOの作った食堂で一日12時間働く50歳代の女性は話していました。自分も背中がずっと痛いけれど、病院では医薬品や手術道具が不足しているため、自分で手術用の糸やガーゼや包帯を買っていかないと治療さえしてくれないと嘆いていました。

ガザ市内の道路沿いには、カッサーム・ロケットを携えたハマース戦闘員の勇姿を描いた看板や、イスラエル政府によって刑務所に収監されたままのパレスチナ自治政府の議員たちの看板がいたるところにありました。殺された戦闘員――パレスチナ人は彼らを「殉教者」と呼びます――の写真もいたるところに張られていました。他方で、ハマースのメンバーに息子を殺され、嫁いだ娘は薬中毒の夫に暴力を振るわれていると嘆く家族にも会いました。この家のお母さんは、小麦で作ったマフトゥールという伝統食材を近所で売って、仕事のない20代、30代の息子たちとその家族をなんとか養っていました。

停電の中、自動車と家の電線をつなごうとした夫が感電死し、その数ヵ月後に家の階段から落ちて3歳の息子が亡くなり、残された息子もガザの外で手術をしないと耳が聞こえなくなると話す、お母さんにも会いました。彼女は、亡くなった夫が20年前にイスラエルで働いていた頃に買ったという、食器や家具を大切にしていました。彼女が唯一の心の拠り所にして、毎日ボランティアに通っていた地元の小さなNGOは、カビだらけの古い建物でしたが、5畳ほどの小さな庭には野菜が植えられ、一角には大きな薔薇が咲いていました。このNGOでボランティアをする女性たちは私に、この大切な薔薇をくれました。でも、このNGO事務所の横には、ハマースの警察署がありました。私はいつかこの警察署が空爆され、彼女たちもその巻き添えになってしまうのではないかと、いつも不安でした。

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ガザ市内の小さなNGOで作っていた野菜畑。地元の女性ボランティアたちがこの野菜を使って、貧困家庭や孤児向けの食事を作っていた。このNGOでの被害はまだ確認できていない。(2014年5月19日)今野撮影

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ガザ地区中部ジャバリヤ市内で訪問した住宅。(2014年5月20日)今野撮影

ガザが泣いています。これまでに会った人々が、真っ暗闇の中で、次は自分が死ぬんではないかと恐怖の中にいる姿が、頭から離れません。私が会った人々の中には、もしかしたらロケットを撃っている人がいるのかもしれません。それは私には分かりません。しかし、死傷者数が発表されるたびに、貧しい中でもコーヒーを振舞ってくれ、日本からの小さな支援に感謝してくれていた人々がもしかしたら含まれているのかもしれないと、考えてしまうのです。暗いニュースを聞くたびに、はにかんだ笑顔で優しく握手をしてくれた、あの人たちの手の感触が蘇ってきます。

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ガザ市内のNGOで、収入創出のために地元女性たちが作った作品集。(2014年4月9日)今野撮影

カビ臭くて薄暗い建物の中でも、生きていることを神に感謝して、必死にもがき続けるガザの人々と一緒に、素晴らしい事業を築き上げていきたいと思っていました。彼ら/彼女たちも、小さな成果やアイディアを私に伝えようと必死になってくれていました。それが今、次々に破壊されていっています。イスラエルのメディアは、あたかも「テロリストの基地」ばかりが爆撃されているかのように報じていますが、空爆で破壊されるのは、ロケット発射台やハマースの訓練場だけではないのです。普通の罪のない人々の、思い出も、笑顔も、夢も、明日への希望も、空爆が起きるたびに壊されていっているのです。

イスラエル軍の空爆もハマースのロケット攻撃も早く終ってほしいと心から願っています。この厳しい現実に目を背けて逃げ出したいと思うことは数え切れませんが、それでもガザの人々のあの笑顔をもう一度見たいという願いを捨て去ることもできません。でもきっと、次にガザに行くときには、同じ笑顔など一つもないのでしょう。表面的には笑顔でも、恐怖の中で捻じ曲げられた感情は、心の奥深くに留まって、黒くて暗い何かとして残っていくからです。

イスラエル政府は今回の攻撃も「自衛戦争」だと説明していますが、長期的に見てそれが「自衛」にならないのはすでに明らかではないかと思います。いくらハマースの訓練場や警察署を破壊しても、新たな悲しみと苦しみと憎しみを生み出すだけの大量殺戮が、自衛になるわけがありません。他方、ガザの人々は、家を破壊され、希望を破壊され、親族を殺されたとしても、今までと同じように、我が子の栄養失調を心配し、夫の感電死を嘆き、仕事を探し、家族を大切にし、平和な時の思い出を守り、外国人を歓迎して、力強く生きていくでしょう。なぜなら、ガザの人々にとって、あの巨大な難民キャンプのほかに、行くところなどどこにもないのですから。

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ガザ市内の市場で活躍する靴の修理屋さん。今野撮影

執筆者

今野 泰三(パレスチナ現地代表)

大学在学中に明け暮れたバックパッカー旅行。その道中、カンボジアで内戦の記憶と開発のひずみの中で苦しむ人々と出会い、シリアでパレスチナ難民から祖国への思いを聞き、ロシアの空港ではどこにも行けない無国籍のガザ難民と夕食を共にした。無数の出会いに背を押され、01年よりJVCボランティアチームに参加。英国留学、シンクタンク勤務、エルサレム留学、大阪での研究員生活を経て12年より現職。パレスチナで見たもの聞いたものを日本の皆さんと分かち合いながら、世界の「希望」「幸せ」を少しでも増やせるよう一緒に考え行動していきたい。

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