初めて私が小高区を訪れたのは、今年4月21日、警戒区域解除の日の5日後でした。今野さんが当時のようすを説明してくれたのですが、なんと言葉を返したらいいのか適当な言葉がみつからず、ただただ荒れ地となった見渡す限りの水田跡地を茫然と眺めているだけでした。
その日以来、あまりあの日のことを語らなくなっていた今野さんですが、津波ですべてを失った家の近くの海岸沿いで再び記憶をたどるようにぽつりぽつりと話しはじめました。
「孫には、そのお友だちの話はしないようにしているんです」
「6歳でしたね、その子も。1か月後に、近くの公民館で遺体がみつかったんです」
今野さん自身も、お孫さんを迎えに行き避難させた後、もう一度生存者の確認や避難の呼びかけのために車で行政区にもどり区内をまわっているうちに車ごと津波に呑まれ、流れてくる家屋や瓦礫に押しつぶされ水に沈みそうになって"もうだめか"と思ったところで、知り合いの消防団員に救いだされたそうです。
「うちの父親は、近所の人とあの崖(高さ10メートル以上)に登って津波が来るのを見ていたんですよ。ところが、見ていた津波に10メートルくらい押し流され、急いで近くの物にしがみついてなんとか助かったんです。いろんなところにぶつかって、けがをしていましたけどね。」
4月初めて来た時に聞いたはずの話なのに、その時以上に生々しく当時の情景を思い起こせるのが不思議に思えました。恐らく、そこにまだ津波で壊されたままの堤防や津波で流された家の基礎がむき出しで残っていて、その当時のことを想像するのに難しくなかったというものありますが、なんにも復興が進んでいないことへの違和感や怒りも同時にあったのかもしれません。
かえり道、今野さんが震災前に自分で稲作を始めたというたんぼの傍の道に車を走らせながらひとことこぼすように言いました。
「いつ使えるようになるかわからないこの田んぼを、もうだれも見に来たりしなくなりましたからね。」

















