
JVC45創設周年~7人の元スタッフによるあの時、そして今~〔後編〕 (会報誌T&Eより)
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JVCの設立45周年を記念して、元スタッフの7人の皆さんにご寄稿いただいた特集の第2回目。当時の記憶や思い出、そうした経験を経たうえでの現在に至るまでの活動、またはJVCへのメッセージのようなものを、ざっくばらんに書いていただきました。OBOGの経験を手掛かりに、次の一歩について、皆さんと共に考えていければと思います(編集部)
▶「JVC45創設周年~7人の元スタッフによるあの時、そして今~〔前編〕」 はこちら
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本記事は、2026年1月20日に発行されたJVC会報誌「Trial & Error」No.361に掲載された記事です。会報誌はPDFでも公開されています。こちらより、ぜひご覧ください。 |

私は1997年にJVCに参加して2006年に退職、その短い間に多くの学びがありました。
その間、1997年にパプアニューギニアで干ばつ被害緊急救援活動に、翌1998年にはニューギニア本島の北海岸シサノで大津波によって約3千人が亡くなるという災害の直後に、奥地の湿地帯の現場に入りました。翌年には東ティモールに入り、独立を問う住民投票の際にインドネシア民兵が住民虐殺と焼き討ちをした現場を訪れ、被害調査を行ないました。
2000年からはタイ事業担当となり、松尾康範さんがタイ東北部コンケンの農村で始めた「地場の市場プロジェクト」の東京事業を担当し、2003年からの1年半は現地に駐在しました。2004年末に起きたスマトラ島沖地震・津波の際は、タイ南部西海岸の被災地に行き、日本でも救援キャンペーンを展開しました。
JVC退職後は「パプアニューギニアとソロモン諸島の森を守る会」の事務局を担当し、ニューブリテン島の原生林の中に暮らしている村人が企業による森林伐採を拒否する運動や、裁判闘争を支援しています。
政府に自然保護区を認めさせたニューブリテン島の村人(2025年)
緊急救援活動でもプロジェクトでも、まず現地に行き、直接人々と接し、話をして、何が必要なのか、何を目指そうとしいているのかなどを共有して、実際に行動することがすべての出発点だということを学びました。
タイのプロジェクト地の農民やコーディネーターたち、タイのフォーク・ロックのバンド「スースー」のメンバーとは今でもフェイスブックなどを通して頻繁に連絡を取り合っています。また、「アジア農民交流センター」と共同でタイ、フィリピン、ベトナム、日本各地の農民や市民団体の方々と交流を行ない、みな同じ志を持っていて、だれもが孤立せず、それぞれの地で理想を実現するんだという強い思いを共有することができました。皆さんとは今でも親しくさせていただいています。
JVCでの活動で得た人との繋がりは生涯で一番の財産となっています。
「スースー」がコンサート・ツアーの途中で広島を訪問(2002年)
政府や政治の状況がどうであれ、人々と直接接し、思想を共有し、協力し合うことが、平和への確実な近道であり、世界を変えていく力になるということを、JVCの根幹としていつまでも堅持していただきたいと思います。
1997年にJVCに参加。最初の3年間はカレンダー担当、4年目からタイ事業担当となり、2006年にJVCを退職。有機農業の専業農家となる。2018年から「パプアニューギニアとソロモン諸島の森を守る会」の事務局、各地で企業による森林伐採から原生林を守っている村人を訪問して、支援している。

JVCは名前の通り、日本から関わるべき国際課題をボランタリーに集ったその時々の人(法的には正会員)が考え、話し合い、その時々の活動を創っていく。
設立目的に活動地や分野を定めたNGOの中には、地域への思いや専門性を同じくする昔の職員が退職後も評議員などの形で長く関わる団体もあるが、JVCにそれはない。退職した職員の多くがすっぱりとJVCを離れ、そのまま己の道を歩み続けるのは如何にもJVCらしい。私も退職時に会員も辞めて15年、恩師を偲ぶ場以外かかわらずにきたが、今回は友人の木村茂職員たっての依頼で寄稿を引き受けた。45周年という半端な時のOBの思いなど野暮なだけだがお許し願いたい。
この2年間、友人にいろんなことが起きた。パレスチナの友人はイスラエルの攻撃で兄弟を新たに失い、私は彼の安否を心配する毎日を過ごした。スーダンの友人は内戦で脱出したハルツームに戻れず失意のまま8月に他界し、同月私はアフリカ開発会議のサイドイベントでモナ(JVCスーダン)の話を我が事として聴いた。留学中のミャンマーの友人は抑圧が強まる母国へ戻るに戻れず、なかば難民状態に陥っている。
友人としてSNSを通じて寄り添うにとどまる私に対し、今のJVCに集う人がNGOを巡る厳しい経済的・政治的環境のなかでこれら地域を選び、人道支援に取り組んでいることには心から敬服している。
私自身は退職後も在職時と変わらぬ方向で活動してきた。地元の町、郷里の島、古い縁の山村、25年通うジンバブウェの農村で(関わりの濃淡はあれど)当事者の一人として地域課題に取り組み、国内外の地域づくりの実践者との学びあいに努めてきた。
この身近な人から世界の仲間までソーシャルキャピタル(人のつながり)を強く豊かにする歩みは、JVCウェブサイトの「支援のプロとしてではなく、まずは『市民』と『市民』として向き合う人々が集う『場』でありたい」という願いにも通じるだろう。だから効率に囚われ過ぎず、職員、会員、関わる全ての人の間でソーシャルキャピタルを高めあう場と時間が大切にされている限り、活動地や分野が変わってもそれは私が知るNGO、JVCなのだと思っている。
JVCエチオピアのスタッフと活動地のマーシャ村で(1992年)
一緒に活動しているジンバブウェの篤農家の方々と(2017年)
地元で社会課題に取り組む実践者同士の学びあいファシリテーター。JVCのボランティアを経て1990年にエチオピア赴任。以来、農村開発や紛争後の人道支援にアフリカを中心にかかわる。2010年退職。現在はみんとしょネットワークほか国内外の地域づくりに自身の地元から取り組む。

JVC設立45周年、おめでとうございます。私がJVCスタッフとしてラオスとかかわり、すでに20数年が過ぎました。農山村で困難な境遇に置かれた人々に寄り添い、土地に誇りと幸せをもって暮らし続けられる方法を必死に模索した日々でした。
ダム建設で移住を余儀なくされた村の若者との、何気ない会話を今も覚えています。「私はこの村で生まれ育ち、小学校にもほとんど行かず畑や牛の世話をしてきた。あなたは大学まで行き、外国で仕事をし、収入もある……」。閉塞感や不安、外の世界への憧れが入り混じった言葉に、私は「この村で生きる知恵や技術は君の方が持っている。これから一緒に村の暮らしを良くしていこう」と伝えましたが、その言葉がどれほど届いたのかはわかりません。
あの時の支援は彼にとって意味があったのだろうか、移住先で今も幸せに暮らしているだろうかと、ふと思い返します。
国立保護地域で進む鉱山開発
この四半世紀で農山村を取り巻く環境は大きく変わりました。
道路や電気、通信が整備され、国境貿易や商品作物が広がり、スマートフォンやSNSが暮らしに浸透しました。若者の都市・海外への労働移動が一般化し、気候変動対策という新たな開発アジェンダも登場しています。生活は自然資源に依拠しつつも、より経済的で効率的な農業にシフトし、出稼ぎなどの農業外収入も増えています。「問題」のフレーミングが適切なのか、効果的で実現可能なアプローチはなにか、しっかり考えておかないと、支援する側が取り残されそうな危機感があります。
JVCは「持つ者が持たざる者に与える」のではなく、共に課題を解決する姿勢を大切にしてきました。しかし現実には簡単ではなく、立場や思惑、力関係が複雑に絡み、対話による解決は容易ではありません。私も最近は、衛星画像解析やモバイルアプリなどの技術を取り入れ、村の森林の状況のモニタリング結果を客観的に示すことで、関係者の対話を促すようなアプローチを実践しています。
地域産品としてバナナチップスの商品化に挑戦する女性
無力感に襲われることもあります。それでも、人々が自分の村に誇りを持ち、幸せに暮らせるよう、これからも微力ながら寄り添っていきたい――そう思いながらラオスとかかわる日々です。
測量系コンサルタント会社勤務。大学院生時代にバックパッカーとしてラオスと出会い、1996 年にJVCラオスボランティアチームに参加。2002年~06年の間、JVCスタッフとしてラオス事務所に駐在。その後、森林管理の専門家として、現在でもラオスを含めたJICA森林プロジェクトにかかわり続けている。

日本国際ボランティアセンター様、設立45周年おめでとうございます。時代や社会、人々の価値観が大きく変化する中で、一貫した信念をもって歩み続けてこられたことに深い敬意を抱きます。
1999年、タイの「NGO/農村で学ぶインターンシップ」に参加したことが、私とJVCとの出会いでした。何の経験もなかった私は、「JVCの研修生」というだけで、どこに行ってもJVCの理念を受け継ぐ者として、タイの仲間に暖かく受け入れられました。
そして、後にタイ駐在員として共に活動する中でも、相手と“対等であること”こそが尊厳を守り、状況を変えていくために不可欠だと気づかせてくれたのは、現在の熊岡代表を含むJVCの先輩方とタイの仲間たちが築いてきた深い信頼関係でした。
タイ語の「ピ~ノ~ン」は、“兄弟姉妹”だけでなく、同じ志をもって支え合う仲間を指します。まさにこれがJVCとタイの仲間たちの関係でした。成果だけを追うのではなく、試行錯誤の過程ごと受け止め、お互いから学び合う関係。その姿勢は、活動の隅々にまで息づいていました。
これまで日本へのスタディツアーに参加したタイの仲間は100人を超えます。JVCと歩んできた先駆的な活動家たちから若い世代へと理念は受け継がれ、当時新人だった参加者たちが、いまは持続可能な農業、食の安全、環境、人権など多様な分野でタイ社会活動の中心となって活躍しています。
今も、かつてのタイ事業メンバーと私が一緒に立ち上げた「合同会社PLC」活動として日本とタイとの交流は続き、タイを訪れた日本人も多くのことを学んでいます。JVCをきっかけに誕生した「アジア農民交流センター(AFEC)」も、30年にわたり両国の農民・社会活動家をつなぎ続けています。
JVCとタイの仲間たちが築いてきた信頼こそ、私の歩みとタイでの生活を支えた原点です。私が、日本人が誰一人いない農村で、一時も孤独を感じることなく過ごせてきたのは、この揺るぎない信頼関係――日本とタイのピ~ノ~ンのおかげです。
JVCが私に与えてくれた学びと出会い、そして確かな道標に、心から感謝しています。これからもその志が、世界の仲間たちへと力強く受け継がれていきますように。
タイの農業系NGOの若手スタッフのための日本研修の様子。12人が参加した(2016年)
タイ人の夫、義母、子ども3人とタイ東北部に暮らす。有機農家。東京の市場調査会社、JVCタイ研修生、駐在員を経て、現在、合同会社PLC共同代表。日タイ間の交流や社会課題をテーマとした研修の企画・運営に携わる。著書にJVCブックレット『タイの田舎で嫁になる』。日本タイ協会の会報誌 『タイ国情報』に「イサーンの村でのひとりごと」を連載中。