「南北スーダンの今を語る」第2回 開催しました!

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前回と比べて増えてるように見えますが、1人増えただけです!
2回連続講座「南北スーダンの今を語る」の第2回を、11月6日に開催しました。
第1回ではスーダン(北)を中心に語りましたが、今回は南スーダンを主題に、JVCスーダン事業担当の佐伯さんが語ります。


南スーダン独立の経緯
南スーダンの独立を語るには、植民地時代のスーダンから語り始めなくてはなりません。
スーダンの南部(今の南スーダン)は、ケニアやウガンダの影響を受けています。植民地時代には、イギリスが宣教師をたくさん送り込んでいて、教会もたくさんあります。そういう意味で、とてもアフリカっぽい地域なのだそう。
一方の北部は、植民地時代にエジプトが間接統治しており、アラブ色の強い地域です。
植民地時代から、首都のハルツーム周辺だけで開発が進められ、地方との格差が広がりました。そしてその頃から、ハルツーム対地方という構図があり、散発的な戦闘があったのだそうです。
植民地からの独立と前後して、内戦が勃発。その内戦は、次第に東西冷戦の構造に組み込まれ、北をソ連が、南をアメリカが支援しました。


ジョン・ガランの目指したスーダン
内戦中、ジョン・ガランが南部の諸勢力をまとめ、救国の英雄的な存在になります。ガランは、ニュースーダンというスローガンを唱えていました。それは、自由、平等の下に統一された新しいスーダンの確立を目指すものでした。
国際社会は、ガランの存在を頼りに、和平合意の準備を進めました。しかしその中で、ニュースーダンは南北の手打ちの落としどころに矮小化されていきました。
2005年、和平合意が成されて内戦が終結。しかし、そこで後回しにされた問題が、今になって噴出してきています


ティーブレイク
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前回同様、ブレイク用のお茶をご用意しました。ミントティ、現地ではシャーイビッナァナァと呼ばれています。お砂糖たっぷりがスーダン流。


南スーダン独立によって、得たもの、失ったもの
南スーダンの独立によって、南スーダンの人々は自分たちの国、誰にも虐められなくて済む国を得ることができました。上記の通り、虐げられてきた歴史を持つ彼らにとって、これは大きな価値を持つことです。
しかし、失ったものもあるのではないかと、佐伯さんは語ります。
現南スーダン政府であるSPLAは、独立以前は、ダルフールの反政府勢力の仲介や、LRAとウガンダ政府の交渉を取り持ってきました。このような活動を続けられれば、東アフリカの仲裁役となることも可能だったのではないでしょうか。
しかし今では、自分たちがスーダン(北)と抜き差しならない関係にあります。LRAの掃討作戦に参加して恨みをかったり、ケニアやウガンダと国境線をめぐって揉めているところもあり、争いごとには事欠きません。


人の移動
現在の南スーダンでは、多くの人の移動が見られます。
  • 2005年に南北内戦が終結した事による国外に逃れた難民、国内の避難民の帰還
  • 南スーダンの独立に伴い、北部にいた南部出身者の、南スーダンへの帰還
  • 現在紛争の発生している南コルドファン、青ナイル州から、国境を超えて南スーダンへの避難
  • 南スーダン内の民族集団間の紛争により、主に南スーダン中央部から周辺部への避難
この動きが落ち着くまでは、今しばらく時がかかるでしょう。
難民キャンプで英語教育を受けた人々や、スーダン(北)でアラビア語による教育を受けた人々が、戻ってきてひとつの国を形成しようとしているわけで、国としての前途は多難です。


懇親会
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スピーカーの佐伯さんを囲んで懇親会です。
参加して下さったお客様も個性豊かで、お話しが尽きず、予定を1時間オーバーして23時にお開き。
ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

このブログ記事について

このページは、ゆうすけが2012年11月11日 00:38に書いたブログ記事です。

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