Trial&Error掲載記事
孤立する市民のために
福島県南相馬市の災害対策本部で、被災の状況を示す地図をもらった。南北にやや長い長方形の市域の海に面した東側が、赤く塗られている。津波の被災地だ。その後背地がかなり広いことは、住民の10%前後が亡くなった三陸との明らかな違いだが、それでも福島県の太平洋側の多くの市町で、人口の1%前後の死亡者が出た。南相馬市でも、約四十平方キロに壊滅的な被害をこうむり、約六百五十人の死者が出た。
また、市域は二本の線によって南北にほぼ三分されている(左図参照)。事故があった東電福島第一原子力発電所から二十キロと三十キロの距離を示す同心の円弧の線だ。南から、人が住むことができない警戒区域、緊急時にすぐ避難のできる人だけが住むことができる緊急時避難準備区域、そして国からは避難の指示が出ていない区域となった。この三つの地域は、偶然にも南相馬市が合併する前の旧小高町(現小高区、約一万三千人)、旧原町市(現原町区、約四万七千人)、旧鹿島町(現鹿島区、一万二千人)にほぼ重なる。
原発事故が深刻化し、政府は避難や屋内退避を指示した。南相馬市は全域の市民に避難を呼びかけ、避難用のバスも出し
た。その結果、三月末の時点で約七万人のうち六万人が市外に出たとされている。その結果、市内への物流ルートが途絶え、ガソリン、食料をはじめ、すべての物資が枯渇し、残っていた住民の生命の危機すらささやかれた。
【No.291 生き残った私たち2 (2011年10月20日発行) に掲載】
混乱・避難・分断
「避難車のヘッドライトが流れをり 今夜はいづこに辿りつくのか」
(南相馬 根本定子 ※歌集『あんだんて』より。)
今回の原発事故直後の避難の様子をうたった歌である。震災後の一週間、報道では三陸沿岸の津波被害のすさまじさや原発事故に対する政府の対応ばかりに焦点が当たっており、福島で何が起こっているのかの情報は不足していた。しかしこの歌にあるように、福島第一原発の近隣自治体は大混乱で避難者の列が延々と続いていた。逃げるのか逃げないのかで家族の意見が対立し、父母を置いて逃げざるをない人々も多かった。時間がたち放射能の飛散状況がわかってくるにつれて、この事故の深刻さが現れてきた。
前号に引き続き、東日本大震災関連の取り組みを取り上げる。今回は原発事故が起きた福島県内での活動だ。そこで今も暮らしている人たちは何を思っているのか、また放射能の問題があるにもかかわらずJVCはどうして取り組むのか。どのように振るまうのか「正解はない」なかで、JVCが何を指針としているのかを読み取っていただきたい。(編集部)
- 福島にどう関わるか、関われるか (代表理事 谷山 博史)
- 「こちら、みなみそうまさいがいFMです」 (震災支援担当(南相馬市駐在) 楢崎 知行)
- 「風評被害」に負けない社会を (農業ジャーナリスト 西沢 江美子)
四月六日から六月二十六日まで、私は気仙沼市災害ボランティアセンターのボランティア調整部門で働きました。私が担当したのは、外部からのボランティア相談対応と現地でのボランティア受付です。相談対応では、ボランティア活動に関する問い合わせを電話で受けました。「炊き出しをしたい」「物資を送っていいか」といった全国からの様々な要望に対して応対しました。受付では、実際に来られたボランティアさんを迎えてボランティア登録の手続きなどを行ないました。
困難の中で立ち上がったボランティアセンター
東日本大震災を受け、三月二十八日、宮城県気仙沼市災害ボランティアセンター(以下災害ボラセン)が立ち上がった。災害ボラセンの母体は気仙沼市社会福祉協議会。そこに近畿地域の社会福祉協議会、シャンティ国際ボランティア会をはじめとするNGOも協力して運営してきた。災害ボラセンの目的は、気仙沼市民が復興に向けた第一歩を踏み出せるよう、ボランティア活動を効果的にそして効率よく展開させることである。
JVCは三月三十日から災害ボラセンの運営支援として入った。私も運営支援にあたるスタッフの一人として、この時から約三ヵ月間、災害ボラセンにお世話になった。振り返ってみると、当初の災害ボラセンの活動は、津波で被災した家屋を清掃するといった水害対応と、避難所をはじめとする被災者に対する生活支援に大別できたと思う。ただ、そうした分類ができないほど初期の災害ボラセンは様々な困難に日々直面していた。水害対応ひとつとっても、作業に必要な道具が足りない、ボランティアを派遣する車両が足りない、外部からの問い合わせに答える電話が足りない、雨露をしのぐためのテントが足りない、なにより運営を支えるマンパワーが足りない、といった「ないない尽くし」の中でのスタートだった。
なぜ、海外に? なぜ、国内なの?
私たちはよく「日本にもたくさんの問題があるのに、なぜわざわざ海外に行くのか?」という問いかけをいただく。逆に今回は、「なぜ国際協力のNGOが国内の震災に関わるのか?」とも言われる。こんな時だからこそ、誰かが外にも目を配り続けなければいけないのではないかと。これらは他者からの言葉であると同時に、自らに問いかける言葉でもある。
これまでも会報で報告してきたとおり、JVCは2011 年3 月11 日に発生した東日本大震災の被災者支援のひとつとして、宮城県気仙沼市に発足した災害ボランティアセンターの運営支援を行なってきた。現在はこの間の活動で縁ができた同市内沿岸部の地域で活動を深めつつある。現地で活動してきたスタッフからの報告とともに、これまであまり国内の災害支援に携わることがなかったJVC がなぜ今回の震災支援に関わるのか、発災から5ヵ月が経過した今、まずはいち早く活動を開始した気仙沼市に絞って、改めて私たちの考えを整理し、あわせてこの先の関わり方を展望する。また、発端の源は同じではあるが、原発故障による被害拡大に苦悩する福島県における活動については、JVC の考え方と具体的取り組みについて次号以降に報告したい。(編集部)
- JVC「らしさ」を生かせる国内支援とは?(事務局長 清水 俊弘)
- 生き続けるという試練をともに(緊急支援担当 下田 寛典)
- 小さくても、人は支えになれる(緊急支援担当/昨年度東京事務所インターン 長畑 凪)
活動概要:
宮城県気仙沼市災害ボランティアセンターの運営支援
活動の目的
気仙沼市においてボランティアの受入を担う気仙沼市災害ボランティアセンターの運営を後方支援することで、外部からのボランティアの受入調整や実際のボランティア活動を円滑に行なわれるようにする。
活動期間
2011年3月30日~ 7月末
| 3月20~25日 | 初動調査 (SHARE と同行、清水・下田) |
| 3月30日~ | 災害ボラセンの支援開始 (下田・金・長畑) |
| 5月6日 | JVCボランティア活動(1) |
| 6月10日 | JVCボランティア活動(2) (鹿折地区鶴ヶ浦へ) |
| 6月11、12日 | 鹿折地区の方々と蔵王温泉へ |
| 7 月~ | 鹿折地区での地域支援へ (山崎、岩田) |
気仙沼市の被害(市発表資料より)
死者:1,000 人、行方不明者数:414 人(8/3 時点)
住家被災棟数:12,914 棟(6/19 時点)
被災世帯数: 9,500 世帯(4/27 時点・推計)
最近、「趣味は何ですか?」と聞かれるとちょっと困る。読書?映画鑑賞?普通すぎてつまらない。植物を育てるのは好きだけど、カンボジアでは暑くて育つかわからないので一時休止中。旅行も好きだが、日常的ではないしカンボジアではどこに行くにも結構お金がかかる。
インターンでタイの農村に二年間滞在していたとき、ホームステイ先のお父さんとお母さんにはとても恵まれていた。お母さんはよくしゃべり、村の女性の中でもリーダー的な存在。その一方で、お父さんはとても物静かな人。いや、お母さんが喋りすぎてお父さんが話そうとしてもさえぎられてしまうのだ。「男はカップ、カップ(はい、はい)と奥さんの言うことをきいていればいいんだよ」とのこと。
結婚式というのは、新郎新婦が新たな旅路を二人で歩むことを誓い、親から巣立っていく人生転機の行事であると思う。周囲も、その旅立ちを祝い、激励する。親への感謝の言葉を述べるシーンでは、まるで自分のことのように涙がでてくる(親に迷惑かけっぱなしのため)。結婚式に出席することは嬉しいが、これが連続すると実生活に影響を及ぼすことがある。いわゆる「ご祝儀貧乏」というやつである。













